2025年8月1日金曜日

レア鍋日記2025年 (随時更新しています)

レア鍋日記とは

ごくたまに更新しています。

データベースの登録数が増えたせいで、ワン鍋ニャン鍋賞が減り、それどころか3首のレア鍋賞もなかなか見つからなくなってきました。
その日の気分で、5首ぐらいでもレア鍋賞に入れてもいい、ということにします。


※新しい順で掲載

■2025年8月1日 あまり詠まれていない職業

いろんな職業の詠まれる頻度を調べている。
あまり詠まれていない職業は多い。
というか、「職業」といって思い浮かぶ職業が少なくて、
「あまり詠まれていない職業」探しは行き当たりばったりです。

ナイ鍋
以下、ちょっとはあるかと思ったが歌が見あたらなかった職業
 バーテン 清掃員 ネイリスト

ワン鍋賞 ユーチューバー
10年経って 丘を ユーチューバーが走っていった
伊舎堂仁(作者ブログnote有料記事24・1・21)

ワン鍋賞 ディレクター
ラジオ局がもし月光の牢獄ならディレクターとはいかなる罰か
ルビ:牢獄【ひとや】
藤原龍一郎『ラジオ・デイズ』

ワン鍋賞 ヤクルトおばさん
ああ我もヤクルトおばさんの年齢となり水鳥のそば腰かけている
ルビ:年齢【とし】
前田康子『キンノエノコロ』

ワン鍋賞 パフォーマー
舞台で死ねいま蘇生して明日も死ねわがパフォーマー首くくり栲象
ルビ:舞台【ここ】 栲象【たくざう】
橘夏生『セルロイドの夜』

ニャン鍋賞 パティシエ
百万個フィナンシェ焼けば宥されて天駆けるべし美貌のパティシエ
小林真実 「かばん」誌(時期調査中)
パティシエが三人がかりででも何も作らなくって夕日をみている
吉岡太朗『ひだりききの機械』2014 
※ただし、他に「シェフ」3首、「コック」3首、「料理人」4首がありました。

ニャン鍋賞 旅芸人 
弱者すなはちわれより少し撫肩に描かれピカソの旅芸人等
ルビ:旅芸人等【サルタンバンク】
塚本邦雄
あおむけに靴紐むすび起きるとき昔旅芸人だった気がした
雪舟えま『たんぽるぽる』2011

ニャン鍋賞 占星術師
蛮族の占星術師を出し抜いて星空の下に君を連れ出す
植松大雄『鳥のない鳥籠』2000
駅前の占星術師はこの駅ができる前からこの場所にいた
鈴木晴香『夜にあやまってくれ』2016
※「占い師」は5首あった。

ニャン鍋賞 配達員
覗き穴越しの夕暮れ穴底にいるのは僕か配達員か
木下龍也『きみを嫌いな奴はクズだよ』2016
帰りたい配達員から帰ってほしいわたしがすぐに受け取る荷物
鈴木ジェロニモ「鈴木ジェロニモ自選短歌180首」作者ブログnote2023/3/11

ニャン鍋賞 作業員
素裸のマネキンはこぶ作業員の能面のやうな顔をうやまふ
前川佐重郎(出典調査中)
二百円を我に乞いたる自称元除染作業員にこの冬遇わず
齋藤芳生『花の渦』2019


2025年6月16日 ワン鍋賞 保母
         ニャン鍋賞 カウンセラー

 本日の闇鍋短歌総数 132,357首

いろいろな職業の詠まれる頻度を見ていたら、「保母」という語を詠む歌がたった1首しかないことに気づいた。
現実に多くの人が従事していて日常耳にすることも多いのになぜだろう。

子を保母にあずけて駅へ急ぐ朝どうしても嘘つきのようにさみしい
早川志織『クルミの中』2004

また「カウンセラー」も、保母さんほど日常接するわけではないとはいえ、2首しかないのは意外だった。

わたくしに敵なんかゐないと言ひ聞かすカウンセラーは魔女に似てゐる
浦河奈々『マトリョーシカ』
飲み込んだ言葉がきっとあるはずのカウンセラーよ 駅まで雨だ
虫武一俊『羽虫群』

ついでに、他の職業の歌数も書いておく

アナウンサー:5首
予報士 6首
スパイ:7首
キャスター:9首
芸人:9首
刑事:12 警部:3 計15首
巡査:10首 お巡りさんorおまわりさん:6 計16首 
歌手:26首
探偵:26首
俳優:11/女優;15 計26首
力士:27 お相撲さんorおすもうさん:5 計32首 
選手:33首(種目はいろいろ)
医師:76 医者51 計127首
教師:67  先生:228 計:295首




2025年4月7日 ワン鍋賞 仮縫い

ねえちょっとじっとしていて千本の仮縫いのまま生きてもいいの
藤本玲未『オーロラのお針子』2014

「仮縫」という語を含む歌は、約13万2千首のなかで、これ1首でした!!

2025年4月7日 ワン鍋賞 遣唐使

口いっぱい桃の花びら頬張らすときだけ正直癖遣唐使
鈴木有機「かばん」2002・5

「遣唐使」という語を含む歌は、約13万2千首のなかで、これ1首でした!!
「遣隋使」の歌はありませんでした。

俳句で
おんおんと遠はるせみや遣唐使
冬野虹『網目』

を見つけました。

歴史の授業で習った語、歴史上の人物名、を含む短歌のアンソロジー
そのうちやってみたい。

■レア鍋賞 幕府

ちょっと様子見で「幕府」を探してみたら!

さかみちを全速力でかけおりてうちについたら幕府をひらく
望月裕二郎『あそこ』2013

倒置せよ波浪注意のうしみつに足利幕府濡れ濡れて来
和合亮一 作者ブログ2015・10・27

肉体が幕府であれば刺激もとめやまざる舌はさながら出島
小池光『日々の思い出』

俳句も2句発見

鮟鱇の鍋の鎌倉幕府かな
大畑等 『ねじ式』2009

パンジーが幕府をひらけさうですね
土井探花 現代俳句協会HP 第40回兜太現代俳句新人賞受賞作

うん、いい手応えだ!

■2025年4月6日 レア鍋賞 ナポリタン 4首

本日の闇鍋全データ 180,432歌句
     うち短歌 131,894首
  このなかに「ナポリタン」を詠み込んだ歌は4首だけ。

ばくぜんと死を考える朝っぱら ナポリタン・スパたのむ昼過ぎ
白瀧まゆみ『自然体流行』1991

夕日色したナポリタンを食べている間は弱虫でもよいこととする
月夜野みかん 「五線譜もしくはストライプvol.1」 (2013年11月2刷)

夕焼けで炒めたようなナポリタン食う常連に猫背が似合う
鈴木ジェロニモ 「鈴木ジェロニモ自選短歌180首」(作者note 2023/3/11)

枝分かれした運命のいくつかのピーマンだけが具のナポリタン
山中千瀬『死なない猫を継ぐ』2025


 妙にシリアスですね。また、偶然でしょうが、この少ないなかで2首が、ナポリタンの色を夕焼けと結びつけているのがちょっとおもしろいと思いました。
 
 俳句も探してみました。

秋暑し演歌のようなナポリタン
石原ユキオ 作者サイト「石原ユキオ商店」

手持ちデータに「ナポリタン」を含む句はこの1句しかなかったので、ネットで探したところ、

六月のゆふぐれ色のナポリタン
草子洗 2020・6・18毎日新聞「季語刻々今昔」

永き日の病室母のナポリタン
晴田そわか 作者note 2023・2・6

の2句を見つけました。

俳句でも、この少ない数の中、「ナポリタン」と夕暮れの色が結びついていることに注目。理由はわからないけれど、意外に思いつきやすいのかもしれません。

川柳も探してみたのですが、「ナポリタン」は投稿サイトでは多く見られる題材のようです。



■2025年3月30日 レア鍋賞 木の股 3首

本日の闇鍋全データ 180,432歌句
うち短歌 131,558首

木の股に澄みつつしろき春雪の卵ほどなる玉のやさしさ
北原白秋『橡』1943

世界樹がふるえながら葉を落とす 木の股の形状きそいあい
山下一路『世界同時かなしい日に』2024

木の股から生まれて春のこどもたち味蕾ひろげて春をたべる
高柳蕗子「短歌」2023/05 (豆歌集『雑霊のシナプス』2025)


■2025年3月30日 レア鍋賞 印鑑5首

印鑑を押してください捨印を押してください捨ててください
松木秀『RERA』

牛乳からカゼインなるを取り出して固めてできた印鑑を押す
松木秀『色の濃い川』

印鑑を押して力を抜くまでのつかの間散漫の心はあらず
尾崎左永子(出典調査中)

両親が人間になる玄関の鏡台の印鑑ひとつだけ
藤本玲未『テリーヌの夢』2025

正直じいさんが足りない 吉相の印鑑たちをヒトにもどせ
高柳蕗子「かばん」202306 (豆歌集『雑霊のシナプス』2025)

★ここに自分の歌が交じるのが嬉しい感じ
■2025年3月30日レア鍋賞 PARCO 6首

夕照はしづかに展くこの谷のPARCO三基を墓碑となすまで
仙波龍英『わたしは可愛い三月兎』1986

夕ぐれは109の後方にPARCO三基をしたがへて来る
松原未知子『戀人(ラバー)のあばら』1997

昭和二十三年六月十三日太宰治死す 嗚呼!夕照のPARCO
藤原龍一郎『花束で殴る』2002

はじめてのロンドン帰り秋の日に金子由香利を聞きたるPARCO
中村幸一『あふれるひかり』2016

被曝だ、と笑い男らが吉祥寺PARCOを出でて夕立の中へ
染野太朗『人魚』2016

戦場はルサンチマンのスクランブルPARCO本気で墓碑にするまで
山下一路『世界同時かなしい日に』2024

仙波の歌が「PARCO」を詠んだ最初の歌、かどうかはわからないが、少なくともある程度知られて影響力を持った歌である。
山下の歌は仙波の歌を強く意識しているのは確かだが、他も、どの程度意識したかわからないが、夕暮れの光景でなんとなく「墓」だったり死に関わるものを詠み込む例が多いようだ。


■2025年3月24日 ワン鍋賞 はっけよい

 「はっけよい」「ハッケヨイ」「八卦良い」の3種類のテキストで検索。
 これ1首しかなかった。

はっけよいのこったのこった想いはねそなたの失脚願う愛情
久保芳美『金襴緞子』
■2025年3月16日 ワン鍋賞 前売り

「前売」という語を検索してみたところ、データベース闇鍋の13万首のなかにこれ1首しかなかった。

途方もなく未来のことを託される前売り券が重たくて春
塚田千束『アスパラと潮騒』2023

***






2025年5月19日月曜日

ちょびコレ38 舌を出す

 


「ちょびコレ」とは、
「ミニアンソロジー」というほどの歌数はなく、
「レア鍋賞」ほど少なくもない……、

そんな、ちょっとした短歌コレクションです。


だいぶ前に、「短歌の中で舌がすること」というミニコレクションをやりました。
そのときは、「舌」としては珍しい行為などを詠む歌を集めました。

しかし、「舌」というのは、作者読者ともにそそられる題材で、行為自体が珍しくなくても、レアな名歌を詠めちゃうみたいです。
ですので、今回は「舌を出す」ということに絞って、歌を集めてみました。

※検索語句は「舌+出」「舌+[だす]の各活用形」「べろ+出」等々、舌を出すということを詠んでいそうな歌を拾えるように工夫して検索し、あとから対象外の歌を取り除きました。

※舌を出すことを詠んでいても、「舌orべろ」と「出or[だす]の各活用形」を含んでいない歌は拾えません。)


本日の闇鍋データ総数 181,243歌句
うち 短歌      132,197首
うち、「舌を出す」ことを詠み込んだ歌 32首

以下、そこから本日の好みでピックアップします。
まずは近代歌人の2首。

すつぽりと蒲団をかぶり、
足をちゞめ、
舌を出してみぬ、誰にともなしに。
石川啄木『悲しき玩具』

蠅來ればさと繰出すカメレオンの舌の肉色瞬間に見つ
ルビ:繰出【くりいだ】
中島敦 青空文庫(「中島敦全集2」筑摩書房「河馬」)


和歌の時代、「舌」って詠まれていなかったと思います。少なくとも、見たことないです。
 ※ただし、俳句では古典でも「牛の舌」だとかを見かけるし、また、古川柳や狂歌でも「舌」は詠まれています。

今回あらためて「舌」の歌をさがしてみたところ、近代の歌人たちはけっこうたくさん詠んでいて、「短歌」の言葉の世界では新鮮な題材だったと推測されます。

上記の啄木の歌もそうですが、詠まれているシチュエーションもかなり人間的です。(和歌の時代で人間臭いネタはほぼ恋の歌だけ。)

今まで歌に詠まなかった題材は「写生」という観点からも新鮮だったはず。上記の中島敦のカメレオンの舌の色を詠む歌には、そうした表現の喜びが感じられます。

参考例(近代の「舌」の歌。舌を出す歌ではない)

鬪はぬ女夫こそなけれ舌もてし拳をもてし靈をもてする
ルビ:女夫【めを】 靈【れい】
森鴎外『沙羅の木』

おそらく夫婦喧嘩を詠んでいるのでしょう。
「舌もて」は舌戦、「拳をもて」は文字通り。「靈をもて」はご先祖まで振りかざしての大騒ぎ、という意味でしょうか。

この坂は霧のなかより
おほいなる
舌のごとくにあらはれにけり。
宮沢賢治 ちくま文庫 宮沢賢治全集3 


近代の人の表現意欲ってすごいなと感じてしまった本日ただいまの気分で、内容というより、表現欲の強さを感じるかどうかで、以下、現在の歌人の「舌出し歌」をピックアップ。

唇がかくしてる舌ひきだして玉藻のような時がはじまる
加藤治郎 『噴水塔』2015

「玉藻のような時」って何でしょう?
「舌」といえばなまめかしいイメージ。そこにプラスして玉藻といえば……、脳内にサーチをかけると、万葉集の用例から、波間でゆれる藻のように撚り合わさるイメージ※と、「玉藻前」(九尾の狐)から妖艶なイメージも少し加わる感じ、だと思います。

※玉藻といえば万葉集によく出てくる。枕詞の「玉藻なす」は、「浮かぶ」「寄る」「なびく」にかかる。さらに思い浮かんだのが(たまたま知ってただけだが)、柿本人麻呂の「石見国より妻に別れて上り来し時の歌」の一節だ。
「……和田津の荒磯の上にか青なる玉藻沖つ藻朝はふる風こそ寄せめ夕はふる波こそ来寄せ波のむたか寄りかく寄る玉藻なす寄り寝し妹を……」

舌だしたまんま直滑降でゆくあれは不二家の冬のペコちゃん
穂村弘 『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』


舌を出すものといえば「犬」、「貝」、「化け傘」などなどありますが、「ペコちゃん」もそのひとつです。
人物描写のおもしろい歌。外見の描写だけでなく、主体は誰かにこう話しかけていて、それがスキー場を自分たちの街にするようなニュアンスを含んでいます。
だから描写されているのは、ぺこちゃんみたいな人だけでなく、それを見ている二人の素敵な時間だと思われます。そこがこの歌の並じゃない点でしょう。

ああ、雪 と出す舌にのる古都の夜をせんねんかけて降るきらら片
光森裕樹 『山椒魚が飛んだ日』

「舌で雨や雪を味わう」という趣向は時々見かける気がしています。(そのように詠む短歌は実際にはそう多いわけではなく、たまに見る程度です。)
よくよく思い出してみると、教科書で西脇順三郎の「雨」という詩に出会ったのがその最初だった気がします。
 南風は柔い女神をもたらした。
 青銅をぬらした、噴水をぬらした、
 (中略)
 この静かな柔い女神の行列が
 私の舌をぬらした。

一方、「古都の雪」というと観光地を語る文脈を思わせる面がありますが、この歌の場合、「舌で味わう」ことで、主に視覚で味わう世間一般の観光のステレオタイプな体験を超えたものがある気がします。

地球の水分は太古から、雨雪やら河川や海に姿を替えて巡っているもので、その一部は生物の身体(もちろん人間も)を通り抜けます。姿によって異なるイメージを持ち、また地域ごとに歴史その他の特性による情緒も帯びます。古都の雪はその一形態で特に完成されたものでしょう。
歌はそんなことまで言っていませんが、そうした大きな把握が認識の底にある気配はします。詩歌における「雨や雪を舌であじわう」は、そうしたことをそれとなく感じさせる可能性があると思います。

 
舌先を愚者みたいにつきだせば冬のおわりのあおぞらにがい
ルビ:愚者【フール】
佐藤弓生 『薄い街』

「舌を出す」のは、相手を馬鹿にするしぐさでもありますが、「愚者みたいに」というのは、無邪気さのニュアンスでしょうか。また、「空に向かって舌を突き出したら苦かった」というのは、ちょっと「天に唾する」(人に害を与えようとして、かえって自分に災いが及ぶこと。また、自分より上位に立つ者を冒涜するような行為)おろかさにも通じそうです。
空をなめるとは、世界をなめてかかった愚かさ、という意味を含んでもいそうです。

「冬のおわり」は春の直前。季節がこれからまた最初からやり直しになる直前の空は、なるほど、だいぶ苦くなっちゃっているのでしょう。

ぐわぐわとつつじひらけり陽のもとに押し出されゆくくれないの舌
鈴木英子 『油月』


種類によって色や形は違うだろうが、この歌で思い浮かぶのは、鮮やかな紫がかったピンクのつつじ。
花はみんな世界に押し出て咲くパワフルなものですが、つつじは花の中まで同じ色で、たくさん咲くところも、パワーを感じさせます。
「ぐわぐわ」「くれないの舌」という感受には、つつじそのもののパワーと、見るものの心境の反映とが出会った相乗効果を感じさせ、それがそのまま歌のパワーにもなっているとも思います。


舌を出す、とは書いてないけれど、「舌は出島」という意味の次の歌も面白くて、ちょっと捨てがたいです。

肉体が幕府であれば刺激もとめやまざる舌はさながら出島
小池光 『日々の思い出』


「肉体が幕府であれば」という着想が実におもしろいです。
なるほど、人体は混じり合わない鎖国状態で、一人ひとり、自我によって統治されています。
そして、「舌」の役割のひとつが「話すこと」ですが、「出島」と言えば、江戸時代の鎖国政策下において、日本と西欧との唯一の貿易窓口として機能していた場所ですから、この歌、言われてみればまったくその通り、というほかありません。



「舌」は実におもしろい題材です。
また、別の切り口から考察してみたいです。

2025・5・19


2025年3月25日火曜日

ちょびコレ37 特殊算(◯◯算)

 「ちょびコレ」とは、

「ミニアンソロジー」というほどの歌数はなく、

「レア鍋賞」ほど少なくもない……、
そんな、ちょっとした短歌コレクションです。


■特殊算

今回は、旅人算、植木算などの特殊算を詠み込んだ歌のコレクション。
調べたらけっこういろいろあった。

検索語は
流水算、鶴亀算、植木算、旅人算、仕事算、和差算、売買算
時計算、集合算、日暦算、覆面算、虫食い算
および、その仮名表記(ふくめん算など)

本日の闇鍋短歌データ 総数約131,500首
うち、特殊算名を含む歌は以下の10首でした。

【旅人算】
旅人算こころみる冬の室内に思うわたしのあしの速さを
柳谷あゆみ 『ダマスカスへ行く 前・後・途中』2012

旅人算ノートに途中まで解かれ地球のどこかが凍えておりぬ
鶴田伊津『夜のボート』2017

思い出す旅人算のたびびとは足まっすぐな男の子たち
江戸雪『椿夜』2001

【流水算】
まづ脛より青年となる少年の真夏、流水算ひややかに
塚本邦雄『綠色研究』1965

ていねいに図を描くのみの答案に流水算の舟すれちがふ
光森裕樹 『鈴を産むひばり』2010

どの場所からでも流されてしまう生活は下りの速い流水算
山下一路『スーパーアメフラシ』2017

【鶴亀算】
タートルはトータル何匹いるでしょう鶴亀算は足がいっぱい
岡田美幸『現代鳥獣戯画』2019

わからないもののひとつに鶴亀算なにことさらに脚を数える
山中もとひ 『〈理想語辞典〉』2015

【植木算】
植木算は木を描きながら解くのだと子は言う枝に葉をつけながら
広坂早苗『未明の窓』

【虫食い算】
〈虫くい算〉さわやかにわが脳葉に展がりゆける火の秋の空
永田和宏『メビウスの地平』



★俳句も発見
蝶や果つなべて旅人算の外に
ルビ:外(げ)
九堂夜想「LOTUS」(第41号)


なお、ネットで調べてみたら、トンネル算、長椅子算というのもあるようだ。

勝手に、架空の特殊算を作って一首詠む、という題詠やったらおもしろそうだなあ。
恋愛算 不倫算 風邪引き算、ダイエット算、鼻毛算、密室算、激辛算なんちゃって。

高柳蕗子 2025・3・25

2025年3月24日月曜日

ちょびコレ36 ◯、◯、◯

 「ちょびコレ」とは、

「ミニアンソロジー」というほどの歌数はなく、
「レア鍋賞」ほど少なくもない……、
そんな、ちょっとした短歌コレクションです。

◯、◯、◯……

今回は「◯、◯、◯」というような3連以上の畳み掛けを含む歌を集めてみました。

私の近現代短歌データベース「闇鍋」に本日は短歌が約13万首入っています。
うち◯、◯、◯」のような畳み掛けを含む歌は37首ほどありました。
少しピックアップします。
・「、」を挟まないで畳み掛ける例は検索しづらいため、たまたま見つけたものを拾いました。
・「◯」は1文字としますが、2文字が交じるのも一部許容しました。
・「た、た、たいへんだ」のようなものは除外しました。
順不同です。

自然がずんずん體のなかを通過する――山、山、山
ルビ:體【からだ】
前田夕暮『水源地帯』1932

この歌が、私のデータベースの中で一番古い「◯、◯、◯」の用例です。

夏、夏、夏、露西亜ざかひの黄の蕋の花じやがいもの大ぶりの雨
北原白秋『海阪』1949

壁、壁、壁しづけさまさりおさへられおさへられつつつかれてゐるも
加藤克巳『螺旋階段』

家、家、家ってなんだろう電気、ガス、水道、物が詰まって、人、家族
花山周子『林立』


前を行く首、首、首に汗は照り博労町をデモは過ぎゆく
吉川宏志『石蓮花』

先波を越ゆる後波、波、波、波、無量の波が陸に迫りく
ルビ:
先波【さきなみ 後波あとなみ
高野公彦『天平の水煙』

そとはあめ、雨、雨、氷雨、皮膚に皮膚よせて樹木は情を知りそむ
佐藤弓生『薄い街』

額縁店の壁に我、我、我、我、我、我を充てよと額のひしめく
真野少『unknown』

エスカレーターにせり上がりくる顔顔顔 朝のホームは魔術師である
杉崎恒夫『パン屋のパンセ』
この例は「、」がありませんが、同類とみなして混ぜておきます。

空、空、空 ラウインゲンの空青く午後十時半くれてゆくなり
田中徹尾『和の青空』2025

僕たちの運ぶ辞典の頁、頁、膨らみだして港が近い
千種創一『砂丘律』2015

2回しか畳み掛けてないけどなんだか3回ぶんインパクトあり。

虹、虹、虹、送電線は彼方から彼方の虹を送りつづける
ルビ:
彼方かなた
早坂類『風の吹く日にベランダにいる』

ダウンライトに後ろをさらす首、首、首、ほの白くて折れやすそうな
法橋ひらく『それはとても速くて永い』2015

シャガールの青青青瞳孔を見開いたまま一生を見た
天道なお『NR』2013

尾、頭無し、尾、頭無し、尾、頭無し、尾、頭無し、ねむい教室
加藤治郎『噴水塔』


全体として、特にコメントの必要はなさそうで、どれも一定の効果を出しているように思います。

加藤治郎の「尾、頭無し……」のように意外なものの畳み掛けがもっとあっていい、と思いました。(注文の多い読者)

今回はここまで。

「◯、◯」を探したら、「花鳩豆…」的な列挙型の畳み掛けの歌をたくさん見つけてしまいました。
すごく面白いけれど、多いので、分類しながら取捨選択するのが大変そうなので、今回は見送ります。
いつか機会があれば・・・。

高柳蕗子

2025年3月24日











2025年2月21日金曜日

虫食い式短歌鑑賞3

 虫食い鑑賞 どんな言葉が入る?

短歌鑑賞の遊びというか、一語隠してそこに何が入るか想像しながら読む、っていう方法はいかがでしょう。

--名付けて、虫食い式短歌鑑賞!

「12の扉」の伏せ字「●●……」には同じ語が入ります。

※伏せ字「●」は1音を表しています。

  例:自動車⇨じどうしゃ(4音)⇨●●●●

これはクイズではなくて、歌を鑑賞する手段のひとつと思ってください。
短歌の中の言葉には、いわゆる〝詩的飛躍〟があり、その飛躍が大きいと、前後からは推理しにくくなります。その飛躍を味わうための遊びです。

「そんなのめんどくさい、普通に読みたい」という方は、スクロールしてください。
「各歌の鑑賞」のところに、虫食いナシ、鑑賞付きでアップしてあります。


■12の扉 ●●●●●

今回の虫食いワードは「●●●●●」。
5音の言葉を伏せ字にし、作者名も伏せて並べました。


1 ●●●●●閉づれば●●●●●のうへの明るくて これ 秋の大空

2 ●●●●●みしときへんなきぶんして鼻ぢたれたりぢゆうりよくの穴

3 丘の上の家までかえる夜の坂水音ひびく●●●●●踏み

4 午前五時 すべての●●●●●のふたが吹き飛んでとなりと入れ替わる

5 蓋ひらきたる●●●●●覗き込み「レッドスネーク カモン!」と呼べば

6 一つずつ落としこみおり●●●●●をポップコーンで埋めようとして

7 ●●●●●の蓋はくるしく濡れながら若草いろの鞠ひとつ載す
   ルビ:鞠【まり】 載【の】

8 ●●●●●の蓋を持ち上げ残雪を捨てて世界はまた春になる

9 ●●●●●の五月磨り硝子の五月卵サンドの五月は来たり

10 ●●●●●の模様に地域性が出るみたいな話をしていたら 海

11 anywhere out of the world ...... 蓋に五芒星きざまれてふるえる●●●●●
  ルビ:anywhere out of the world 【ここでないどこかへ】

12 ●●●●●にひとりひとつのぬいぐるみ置いてこの星だいすきだった



 いかがですか? 
〝詩的飛躍〟のせいでわかりにくいところもありますが、なんとなく見当がついたのでは?
 












以下、回答、考察と鑑賞です。




回答 マンホール


Ⅰ 考察(前半) 「マンホール」の普遍的イメージは?

 

普遍的なイメージのモチーフを予想

※「モチーフ」は広義には「物語などを構成する要素」だが、狭義では「シンボル化・主題化され得るほど認知されている要素」を指すこともある。
 本稿では、狭義の「モチーフ」の定義で、まだ認知度が微妙で、モチーフに「なりかけ」だったり「候補」だったりする段階のものも含める。
 
 まず、歌に詠まれる「マンホール」は何を表すのか。ある程度は普遍的かと思われるイメージモチーフを予想してみる。
 「どうして? 予想などせずに、ニュートラルに読めばいいじゃないの」と思うかもしれない。
 しかしそもそも脳内環境はニュートラルではない。少なくとも私の脳はいつも、意識化できていない不審なものでどろどろ状態だ。
 そんな泥んこ脳をかき回しても、根拠の怪しい思い込みやあやふやな納得感しか得られない。
 多少なりとも確実性を高めるため、「普遍的と思われるもの」という受け皿を用意し、実際の歌にあたって検証する、という方法をとる。予測に縛られる面もあるかもしれないが、予測内容の妥当性を実際の歌を見て検証することも可能だし、足場が硬ければしっかり読み解くこともできるし、予測できなかった独自な要素も見落としにくくなるとも思う。

というわけで、「マンホール」の普遍的なイメージモチーフの予想

a マンホールは地下領域(見えない国)への出入り口。
  覗き込んでも、深さ1,2メートル程度が垣間見えるだけ。
  この地下には計り知れない国がある、という印。

b マンホールの下は複雑な迷宮 だが人は気にかけていない。
  上下水道や電気ケーブル等、人間社会の血管みたいなものが埋設されている。
  そのことを、わたしたちは知識として薄々知っている。
  知っているが見えないから存在の実感が希薄で気にかけない。  

c 地下は不可侵の場所・忌避感
  ①下水管は暗くて汚なそう。
  ②地下は死者の国。
  ③深層にはマグマ。

d マンホールの蓋は地下を封じる
  忌避感⇨「触らぬ神に祟り無し」「臭いものに蓋」
  遮断して忘れ去る

e 忘れられた存在
  地下には、忘れられたものがある
   (日陰者、たとえば皆から忘れられている窓際族。)
 
f 虫が旅立った痕跡
  地面にあいた穴は、セミなど昆虫が出た痕跡。
  そこから、「時が来れば、解放や脱出が可能」というシナリオが喚起され得る。
  「5」の、地下に忘られていたものもいつか時満ちて、地上へ空へと旅立っ等。

 以上が、鑑賞に向けて用意した「受け皿」のイメージモチーフである。

  歌にはいろいろな解釈が成り立つ。私はできる深読みは積極的にする。
 「詠む」と「読む」という二種の詩心が、繊細な指相撲のように楽しく攻防するような、エキサイティングかつ精密な鑑賞をこころがける。

Ⅱ 各歌の鑑賞

 さて、掲出歌は、myデータベースにあったマンホールの歌22首から、なんとなく好みでピックアップした12首で、歌の順番はランダムである。


マンホール閉づればマンホールのうへの明るくて これ 秋の大空
  渡辺松男『時間の神の蝸牛』2023

 「閉づれば」が効いている。
 マンホールの蓋をしたとたん、それより下の世界が閉ざされる。そういう決定的瞬間みたいな感じだ。
 その上にあるのは明るい地上。さらに上には秋の大空だ。(とびきりの晴天だろう。)
 そして、このように上の世界を描くことで、「反転的な対称の位置に、閉ざされて暗い地下世界があり、更にその底には闇の天蓋がある」みたいな構造を提示し得ていると思う。

 「地上に対して地下は反転的構造」という構造把握を、私はいままであまり意識化してこなかった。が、無意識領域でなら思い浮かべたことがあったような気もして、これは「普遍的イメージモチーフ」の〝なりかけ〟段階かと思う。

 ★地上地下の反転的構造……
  

マンホールみしときへんなきぶんして鼻ぢたれたりぢゆうりよくの穴
  渡辺松男『雨(ふ)る』2016


 地下の秘められたパワー。これは、「地下」が持つイメジャリー(心象を喚起する作用)の一つだ。そのパワーを、この歌は実に珍しい捉え方で表現している。
 誰でもなんらかの形で地下のパワーを感知する。暗闇を流れる水の気配、地中の死者の怨念、深層にたぎるマグマ等々もあり得るが、一般的に「マンホール」という題材は水音を聞く歌になりやすいと思う。(22首中4首あった。)
 ところがこの歌では、なんと、マンホールを見たとき変な気分になり、鼻血が出て「重力」を感じている。
 この場面がもし現実なら、具合が悪くなって鼻血も出て、心身ともに不安でうろたえている状況ではないだろうか。くずおれそうになり身体は、たまたま目にしたマンホールに地下からのパワー感じ取り、「ぢゆうりよく」を意識した。
 弱った身体はセンシティブだから、身体そのものの想像力が高まることがあると思う。地球の「重力」が高濃度で(まるで放射線とかみたいに)マンホールから染み出す。それに自分の身体が応答して、同じ穴である鼻から血が流れだす。ーーそういうふうに身体が空想的に感受している生々しさが、この歌の核心であると思う。

 ★体感/地下と身体とが呼応


丘の上の家までかえる夜の坂水音ひびくマンホール踏み
  佐波洋子『時のむこうへ』2012

 マンホールで地下の水音を詠む歌は少なくないので、他との違いが重要だと思う。
 この歌で他と違う要素として注目したのは、この人物がいま坂を登りながら地下の水音を聞いている、という点だ。
 夜、家路の坂道で、足下の水音響くマンホールを踏む。
 ーーそこから何を読み取ろうか、と少し迷う。
 仕事などの疲れの仕上げのように坂を登っているのだろうか。そのときこの水音はどう聞こえるのか。その手がかりになる要素は提示されて無い。
 だから、例えば「たくましい水音に励まされるかな」とか、「坂を上り下りする水と自分の生活を重ねるのかな」とか、ありがちなシナリオに踏み込んでみると、「なーんか違う」と引っ込めたくなる。
 「水」が自分と並行して坂を上り下りしている、という事実を検知したのかもしれない。それはマンホールを踏んだとき一瞬重なっただけの、〝無縁寄りの縁〟※である。
※このごろ「有り寄りの無し」というフレーズを耳にする。そういう濃淡の微妙さにこだわる時代だ。

 感情移入したり自分に重ねたりせず、自分と水という二つの現象が、今たまたま並行しているという淡い無縁。この世界には、さまざまなものたちがそれぞれの有りようで、同時に無縁に存在する。自分と万象との縁も〝無縁寄りの縁〟であり、それが世界の一部としての自然な在り方だ、というような、ーーいや、踏み込みすぎましたね。

 ★淡い無縁、あるいは〝無縁寄りの縁〟

午前五時 すべてのマンホールのふたが吹き飛んでとなりと入れ替わる
   笹井宏之『てんとろり』2011

 ぶっ飛んでるなあ。
 地下の心は地上の人間の理解を越えている。そういう感じ、新しい捉え方だし、愉快だ。
 マンホールの蓋がひゅーんと飛び交い、がっちゃんと入れ替わる。
 派手なパフォーマンスだ。地霊のフォークダンス的ないたずらか。でも、意味不明すぎるし実害がないし、人々は、目にしなかったふりで通り過ぎるかもしれない。
  さっきの歌のところでも感じたことだが、このごろの短歌は、自分との無関係さのニュアンスを精密に捉えるし、同時に「読み方」もそういう点を味わいそこねないように注意するようになってきた。つまり、「無関係さ」というものが詩的に追求するテーマの一つに昇格※したのである。この歌はその辺境を示すフラッグのひとつだと思う。
 「無関係さ」が詩的に追求されていくなかで、「地下」もその出入り口の「マンホール」も新たな意味を帯びてくるだろう。
かつては。万象と自分との「関係の発見」が自己確認でもあるような歌がたくさんあり、それがの歌の有力な成立要因の一つだった。しかし、いまは、「無関係の発見」も、同じぐらい重要な歌の成立要因になりうるモチーフに昇格していると思う。
  
 ★「無関係」の辺境地帯

 

蓋ひらきたるマンホール覗き込み「レッドスネーク カモン!」と呼べば
   藤原龍一郎『19××』1997

 「レッドスネーク、カモン!」は、「東京コミックショウ」という夫婦芸人のコントで、赤青黄の蛇のパペットを使うもの。緩い芸風はほのぼのとした笑いを誘った。
インドふうの衣装の男性が、赤青黄の3つの箱に笛を吹いたり話しかけたりする。台の下にかくれた妻が蛇のパペットに手を入れ、箱から蛇の頭を出して動かす。仕掛けはまるわかりで、観客はその緩い演技を面白がっていた。
 知っている者には懐かしい、今はないお笑いを、記憶の地層から呼び起こそうとする。
 末尾の「呼べば」という言いさしが気になる。呼んだらどうなるの?
 「何も起こらず、虚ろに声が響くのみ」ならいいが、「思い出の亡霊が、地下で成長し、マンホールの太さのとんでもない大蛇となって出て来ちゃう」というのもあり得る。なぜなら、物語(特にホラー系)でたまに見かけるモチーフに、「安易に呼びかけたり触ったりして、とんでもないものを呼び覚ましてしまう」というのがあるからだ。※
※たとえばイザナギのミコトが妻を迎えに、黄泉の国に行ってさんざんな目に遭う話。一度滅んだものを安易に生き返らせると良くない結果になる。
 また、星新一の「おーいでてこーい」※を思い出したのは私だけではなかろう。ーー穴に向かって「おーいでてこーい」と叫ぶと、それがああなりこうなり……、とにかく良くないことが起きてしまう話だ。
※「おーいでてこーい」は教科書に載り漫画やアニメにもなったりしてる星新一の短編SF小説
 だが、この歌には、不吉さを中和する白魔法のようなものが働いている。あのまぬけ面のパペットが大蛇になったところで、たいして怖くない。緩い芸風への懐かしさがこの空想を安全化してくれていて、ワタシ的には、その中和感が、この歌の味わいどころだと思う。

 ★過去と現在混ぜるな危険!

一つずつ落としこみおりマンホールをポップコーンで埋めようとして
  飯田有子『林檎貫通式』2001

 穴を埋める、から連想したのが、その反転的イメージのモチーフ「空という大穴を、人間は夢や願いで埋めようとしている」をどこかで見た気がする。ーー「心の虚しさを投影して、空という虚ろを何かで埋めようとする。がそれは不可能で虚しい。」という感じのモチーフは、まだじゅうぶんに認知されていないかもしれないけれど、見たことがある。※
※探したらこういう歌があった。一つ見つかるなら十はあるだろう。
地上までを見上げるほどの空洞に注ぎ込まうとした夢だもの 山階基「早稲田短歌」42号
 この歌は、その「空を夢などで埋める」の「空」を「地下」に、「夢」を「ポップコーン」に反転したっぽく、うまく呼応していないだろうか。娯楽的場面に似合うポップコーンは夢がはじけたみたいな感じがしなくもない。
 そこには、地下は不要不都合なものをいれる場所(最悪は放射性廃棄物の埋設)だというイメージがほんの一滴ぐらいなくもない。が、しかし、この歌は不思議な明るさも備えていて、「最終処分」というほどの絶望には至らせない。
 ポップコーンは最終処分の汚物というほど禍々しくない。ーー天地反転の構図に重ねるなら、ちぎった白雲みたいだし。そういえばコーンは種だ。一度はじけちゃったからもう芽はでないだろうが……。そうしたことが歌をそれとなく救っていると思う。
 (さっきの「レッドスネーク」の歌にもこの種の作用があったっけ。)

 さらに深読みだが、救い要素としてもうひとつあえかなものがある。ポップコーンを穴に落とすことから、ちらりと「おむすびころりん」を想起しかかった。「食べ物を穴に落とす」のは、現実世界と違ってイメージの世界では「吉事」である。
 「おむすび」は地下のネズミたちと知り合うきっかけだったし、お爺さんのふるまいによっては結果は良くも悪くもなる……。つまり、ポップコーンはもう芽を出さないとしても、地下との新しい関係の可能性はある。

 ★イメージの世界には現実世界と違う「吉事」がある
 

マンホールの蓋はくるしく濡れながら若草いろの鞠ひとつ載す
  ルビ:鞠【まり】 載【の】
  小池光 『草の庭』1996

 この歌のマンホールの蓋、なぜ「くるしく」濡れているのだろう。
 現実的にいって雨だろう。マンホールの蓋には雨水を受け入れる穴アキのものと、雨水を入れないものとがあるが、どっちにしろ地上と地下の境界を守る苦労をしている。「雨にも負けず」に。
 そして、若草色の軽い鞠と、地味な色で(たまにカラフルなものもあるが)すごく重たいマンホールの蓋という対比には、なにかほほえましさがある……。
 そのさまは、なんだか、苦労人のおじいちゃんにかわいい孫がちょこんと乗っかっているような……。
 で、おじいちゃんは、無表情だがちょっと幸福で、孫の軽さを味わっているような……。
 それと、この歌になんだか「めでたさ」のようなものも感じるのは、「マンホール蓋+鞠」のカタチが、少し「鏡餅」を思わせるからかもしれない。
 他の歌にもあったが、この歌も、マンホールのイメージを救うイメージをそっとしのばせていて、苦労をねぎらっているかのようだ。

 ★苦労人マンホール
 
 
マンホールの蓋を持ち上げ残雪を捨てて世界はまた春になる
  佐藤涼子『Midnight Sun』2016

 「世界」が主体。「春」こそはこの世界の、いわば定期リフレッシュの季節である。「蓋を持ち上げる」「残雪を捨てる」のも「世界」。「蓋を持ち上げる」「残雪を捨てる」という作業を実際にするのは人間だろうが、人間も世界の一部であり、日々の行動も世界の摂理の一部である。
 「春は定期的に来るリフレッシュの季節」というのは、歌人なら誰でも一度は詠むと言っていいほど昔からのポピュラーなモチーフだ。
 それゆえ他に紛れない要素も大切で、この歌のそれは、自然界の定期リフレッシュに、人間が人工物「マンホール」に対して行う〝定期メンテナンス〟的な行為を含めている点だと思う。これは一味違う。
 古典では春の訪れを雪の変化で表すことがよくある。雪の下から草が現れる等だ。「マンホールの蓋の雪をどかす」ことは、そういう詠み慣らされた情景を現代に合わせて描き変えたように見える。
花をのみ待つらん人に山里の雪間の草の春を見せばや
藤原家隆『壬二集』1245頃 (六百番歌合)
雪まぜにむらむら見えし若草のなべて翠みどりになりにけるかな
出羽弁『玉葉集』1312
 そしてこれは、単に新しいモノを詠み込んだだけではない。
 私が短歌をはじめた40年前(1980年代)、短歌の言葉の世界では、「自然」と「人工物」が対立関係で捉えられ、しかも「自然」は尊く「人工物」は卑しいという詩的身分差別(?)が当たり前のようにあった。しかし、家電やパソコンが普及した今では、頼もしい人工物たちに守られて(例えば冷房がなかったら死者が出る)暮らしている。必然的に「人工物」の詩的地位は向上し、貴賤感覚はずいぶん薄れてきた。
 この歌は、そうした意識の変化を反映し、「春の訪れ」という伝統的モチーフ※においても、詩的対立も貴賤もなく共存してみせている。

※季節の訪れと人工物
 さして古典に詳しくはないが、和歌における「春の到来」は、自然界の兆候を捉えて詠むのが普通だったようだ。雪解け、野の草、鶯、梅の臭いなど。
 そのため、「季節の変化は自然の変化を捉えて詠む」と拡大して決めつけそうになった。が、たまたま見つけた「法則」的なものは、なべてあやうい。
 例えば「夏の到来」は、とっくの昔の万葉集に「春過ぎて夏きたるらし白妙の衣ほしたり天の香具山」と、人が干す洗濯物(人工物)を「夏の到来」の指標にして詠まれてるもんね。

 ★短歌の世界にも「今はそうなってんのー!」がある
  ※タイムズカーのCM(「タイムズカー」という新システムに合わせて働き方を変える場面の叫び)


マンホールの五月磨り硝子の五月卵サンドの五月は来たり
  小島なお『展開図』

 春の到来の歌に続いて、こんどは「五月」到来の歌。
 こちらは、「事象をピックアップすることで全体を表す」という換喩※。目にした「マンホール」と「磨り硝子」と「卵サンド」だけで、「五月」がまんべんなくあらゆるものに来ていることを表す。
 (この種の換喩に触れた最初は、子供の時に聞いた、サトウハチローの「ちいさい秋みつけた」だ。)
 ちょうど目に入ったものを列挙しているさりげなさ。でもそれは、少ない例のピックアップで全体を表すために、あふれかえる万象の中から適切に選ばれたものである。
 「マンホール」「磨り硝子」「卵サンド」は、「さほど景色の良くない場所、たとえば会社の裏庭で昼食をとっている」と、驚くほどに場面を絞り込んでくれることに注目。
そして、「そんな場所でさえも別け隔てなく「五月」は来てくれる」というふうに、定番の(貧しい窓にも月光はさしこむ的な)おとしどころにきれいに着地している。
 なぜ景色が悪いのか、なぜ会社の裏庭か、と思う人もいるかもしれない。
 なぜなら、「磨り硝子」は、表側の窓ではなさそうで、事務所の奥の資料部屋など、外から見えず外光を入れたくないような窓を思わせるからだ。(マンホールがあるなら水回りのものが近い。炊事場や、トイレの窓の可能性も……。)
 また、戸外でお弁当とくれば「うららかな日差しのなか、小川のほとりの草地で」というシチュエーションがステレオタイプであろうに、そこにあるのは小川でなく「マンホール」であること。ステレオタイプは無意識であることが多いから、このサジェスチョンも無意識領域で、淡く意識化されないままの、いわば隠し味になっていると思う。

※換喩(かんゆ):メトニミー(英: metonymy)は、小難しく言えば「概念の隣接性あるいは近接性に基づいて語句の意味を拡張」なんだそうだが、このウザすぎる説明が無駄に敷居を高くして、必要な人に普及しないのだ。
 換喩は「赤ずきん型の喩」と呼ばれる。「赤ずきんをかぶった子」を「赤ずきんちゃん」と呼ぶ。そういうふうに一部の特徴で全体を表すものだ。「青い目」で「西洋人」を表したり、「鳥居」で「神社」を表すようなこと。「春雨やものがたりゆく蓑と笠(蕪村」も換喩だ。「一部で全体を表す」と平たく説明できる、これを「換喩」と言うんだよぅ。ったくもう。なお、類似を接点にする「比喩」は「白雪姫型の喩」という。王妃が「肌は雪のように白く云々」と望んで生まれた子だから。
 この「換喩」とい語を、短歌の批評用語に加えたくて、この40年、折に触れて意識的に使ってきた。「換喩」を知っていればあっさり読み解ける歌があるし、換喩を普通の比喩ととりちがえると解釈がとんちかんになっちゃうからだ。ところが、この言葉、なぜか全く普及しない。私はもはや古希。これからも「換喩」という言葉の必要を感じないような短歌鑑賞が続いてくのかしらね。めでたいな古希。

 ★ステレオタイプをこっそり隠し味に
 

10 マンホールの模様に地域性が出るみたいな話をしていたら 海
  鈴木ちはね『予言』

 天から降る水の一部は人の街や人体を巡り巡って海に至る……。
 マンホールの蓋のデザインは地域地域で異なっていて、地域地域のイメージを記号化したともいえそうだ。
 マンホールのあるところには下水管などが通っている。これは当たり前なのだが普通は意識しない。マンホールデザインとその地域性という話の最中も、水流とともに歩くという意識は希薄だったと思う。
 ところが、海に出ていきなり、この旅人(いや、ただの散歩かもしれないが、地域性の話でかすかに旅人意識が喚起され)たる歩みに地下水流のイメージがオーバーラップした。人と水管の水が同時に海に到着したかのような、いっしょに旅して来たかのような、そういうふうに少し遡って、かすかな一体感を、「感じそう」になっている。(「感じた」までは届かないぐらい。)
 ついでに、水の旅のイメージとの一体感は、話し相手との一体感にも及んで、こちらも少し遡る感じかな、などと思った。
 さっき、地下と体感でシンクロする歌があったけれども、この歌は、人が共有する観念世界と現実の地下の水管とがシンクロしかかったみたいでで、けっこう新感覚だと思う。
 
 ★足下の水の道と頭の中の観念世界が平行移動

11 anywhere out of the world ...... 蓋に五芒星きざまれてふるえるマンホール
  ルビ:anywhere out of the world【ここでないどこかへ】
  佐藤弓生『薄い街』

 読んだとき、そういえば星マークのマンホールをよく見かける気がした。いや、それはよくかかる言葉の魔法だろう。現実のマンホールは、地域それぞれのデザインになっている。 (ちなみにうちの近所は花柄だ。)
 でもそんな事実は気にせず魔法にかかろう。ーーうんうん。マンホールには五芒星が描かれていそう。
※歌に直接の関係はないと思うが、調べたところ長崎市は市のマークが五芒星のデザインなのでマンホールにもそれが描かれているそうだ。なお、陰陽師の安倍晴明の紋は「晴明桔梗」という五芒星だったそうだ。
 さて、五芒星は呪術的だ。何かが封印されていて、そいつが出たがって蓋を揺らしているのかもしれない。
 それだけでなく、五芒星には、封印した何かを遠く「ここでないどこかへ」と旅立たせるようなミラクルパワーがありそうな気もする。UFOとも縁がありそうな雰囲気だ。
 それとは全く別ジャンルだが「五」の仲間の「五輪塔」もちょっと連想した。
 うちのお墓は「五輪塔」というカタチ。子供の頃に住職に聞いた話では、「五輪塔は、自然界の5大要素(空、風、火、水、地)をかたどり、また人間の五体(足・胸・胸・顔・頭)の意味も兼ねていて、空と語り、発信する」とのことで、お墓がそういう装置であることに驚いた。ちょっとロケットに似てるし。
 というわけで、何物かが時満ちて、マンホールからどこか宇宙にでも旅立つのではないか。地中で幼虫時代を過ごした昆虫が羽化して飛びたつみたいな感じで、何がでてくるのかそそられる。

★神秘的な期待


12 マンホールにひとりひとつのぬいぐるみ置いてこの星だいすきだった
  藤本玲未『オーロラのお針子』2014

 この歌も、地中の虫が羽化して旅立つイメージが重なっていると思う。虫の羽化を描いたのではなくて、それは隠しアレゴリーみたいに、歌を裏付けていると思う。「ぬいぐるみ置いて」は、セミが抜け殻を残すことと重なる。
 このマッチング! この味わいだけでご飯が食べられそうだ。
 隠しアレゴリーは、叙述されていることが不可解でも、何か別の他のことで脳が体験したイメージが裏から補強する。読んで意味がよくわからくても、謎のまま立体的理解感(造語です)みたいなものが生じる。(私はこの「立体的理解感」がすごく好きだがこの感覚は人による。)
 立体的理解感の説明になるかどうか、ーーグラフィックソフトには「レイヤー」を重ねる機能がある。隠しアレゴリーというのは、別レイヤーの絵を、透過度10%程度に淡く重ねている感じだ。
※レイヤー=階層。グラフィックソフト等における、絵や設計図の仮想的なシート。複数のシートを重ねたり、別々に編集したりする。透過度も調節できる。
 
 何かが星を出ていってしまうらしいSF的な味付けもいい。(これもレイヤーの一つだ。) 
 彼らは地下都市に住んでいたが、何らかの理由、たとえば自然破壊とかで、星を脱出しなければならなくなった、みたいないきさつだろうか? 「ぬいぐるみ」は、自分たちが去っても星が淋しくないように置いていく「埴輪」(副葬品)のようなものだろうか? 地下を封じる重いマンホールの蓋は墓石に通じる。
 「だいすきだった」と言って〝ここ〟を去るというのは、ちょっと胸キュン(これ死語?)なアニメみたいで、深刻になりすぎないように調節された描写だとも思う。
 そうしたいろいろを総合して、この歌で、心の儀式みたいなものを体験した気がする。
 自分はまちがった場所にいるような、故郷はここではないような、そういう違和感を宥めたり鎮めたりするらしい歌が、2000年を少し過ぎた頃からときどき目に入るようになった。「ここを去る」という心の儀式もその一つだと思う。
 

 ★レイヤーで立体的理解感
  「レイヤー」を短歌の批評用語にしようよ。レイヤーを重ねてるような歌がけっこうあるんだから。


Ⅲ 考察(後半) 「マンホール」イメージの活用

歌を詳細に読む前に、予想したイメージモチーフはざっくり以下の6つだった。

a マンホールは地下領域への出入り口。
b 人は地下のものを少し知っているが、気にかけない。
c 地下は不可侵の場所。忌避感がある(死者の国、マグマ)
d マンホールの蓋で地下を封じる
e 地下に封じられ存在を忘れられる
f 虫が旅立った痕跡 「時が来れば解放・脱出」というシナリオ。

 さて、実際に読んでみたところ、上記は、ある程度は当たっていたと思う。
 しかし重要なのは、違いを感じた点や予想を超える展開だ。
 それでこそ予想をしたかいがある。
 詳細は、各歌の鑑賞に書いたので、以下、気づいたことのみを列挙する。

● 「反転世界」という図
 地下と地上を「反転」の位置関係で捉える。
 私の予想にはなかったもので、これは収穫だ。

● 「無関係」「無縁」を詩的に追求
 現実世界では、地下への無関心は、単なるそれにすぎない。
 しかし、いくつかの歌に見られた「無関係」「無縁」という感覚は、詩的に極める方向で詠まれている。

● 忌避感を体感で
 忌避感を詠む歌があることは予想していたが、体感で捉えるのは想定していなかった。

● 「地下」へのアプローチ&新式の蘇活
 予測中は「忌避感」を重視していたのだが、これは当たらなかった。
 「地下世界への出入り口」と「地下に封じる」は、おもしろ展開し、マンホールに向かって思い出のもの(スネーク)を呼んだり、食べ物(ポップコーン)を投げ込んだり、と、地下へ能動的にアプローチする歌が印象深かった。
 また、地下を「死者の場所」として忌避するのでなく、「思い出や夢が葬られている場所」という懐かしさのほうにシフトした「地下観」が出来かかっているかもしれない。
 そして、いったん葬られたものは、何らかの新しい方式でよみがえるかもしれない。そのわずかな可能性が生じているみたいである。
(死者を呼び起こすとゾンビになるが、思い出や夢のようなものは新しい方法があれば蘇活するかもしれない。)

● 旅立ち
 予測のひとつに、蓋をされて封じられる立場というのがあったが、私が想定した日陰者めいたメンタリティの歌はなかった。
 そのかわり、昆虫の羽化のようにマンホールから旅立つらしい歌があった。
  
● いわゆる「味変(あじへん)」
 「マンホール」という比較的新しい(まだ詠み尽くされていなくてイメージ開拓中の)題材を、伝統的な題材やステレオタイプ化したモチーフと組み合わせて、新感覚へと転換する。そういう使い方をしている歌もあった。

 というわけで、
 全体として、私の予想などいくら超えてもかまわないと思えるほど、歌たちには、たくましい表現意欲の裏付けが感じられた。

 考察の前編に、「詠む」と「読む」という二種の詩心の指相撲のような鑑賞をめざすと書いた。実際、格闘するように鑑賞文を書いた。

 鑑賞は言語化をする「読む」側が有利だが、二つの詩心の指相撲は、互いに手加減せずにせめぎ合ったすえ、「詠む」が煙に巻いて勝ち逃げするのが理想だ思った。
 まだ、そういう名勝負のような鑑賞が書けない。
 

2025・2・13

2025年1月29日水曜日

ちょびコレ25 レジ袋

 「ちょびコレ」とは、

「ミニアンソロジー」というほどの歌数はなく、
「レア鍋賞」ほど少なくもない……、
そんな、ちょっとした短歌コレクションです。

(以前は「随時更新」として、いくつかまとめていましたが、
いま、1テーマ1ページの方式に移行しています。)

レジ袋

(この項、2024年9月に公開しましたが、加筆して
 2025年1月に公開し直しました。)


最初にいちばんのお気に入り1首

この星に投身をする少女のように海底へ降りてゆくレジ袋

(題詠「塵も積もれば」)
山下一路 「かばん」2020.3
『世界同時かなしい日に』2024に収録

 題詠イベント「塵も積もれば」に出詠して最高点をとった歌。

 哀切で美しいが、「塵も積もれば」という題を考えると、このレジ袋は海に蓄積する汚染物質であると思い当たるだろう。そのレジ袋を「投身をする少女」に見立ることの意味が、じわじわ解凍されて来ないか。

 「投身をする少女」という擬人化は、哀れなレジ袋の無念を感じさせるが、その無念は粗末に捨てられたためだけではなかろう。環境汚染の言説におけるレジ袋は、いつも「悪者」扱いだが、もとは石油という地球のまっとうな成分であり、人間によって、土にも海にも還れぬ汚染物質に変えられたのだ。「投身」という言葉選びには、そのことへの幽かなあてつけが含まれると思う。

 さらに、「投身」は、人間に跳ね返って来る。環境破壊は自滅行為だからだ。そう知っていてもやめられぬ人類の矛盾。一人ひとりは否応なくこの自滅行為に加わる。投身のレジ袋たちは、私たちの細分化された自殺の図ではないのか、というふうに、環境問題としての深読みにも踏み込んでいけそうである。


 故人である作者の意図はもう問えないが、山下一路の他の歌にも、こうした手の込んだ悲しい皮肉を見出すことができる。  まじめに深刻な事態を訴える社会派の「手の込んだ皮肉」。 -- 一般的に社会的な問題を詠む場合、その「まじめな意図」を詠みおおせることがメインの目的で、表現の詩性はわかりにくさを回避するために抑えめになりがちだ。が、山下の歌では、皮肉表現の詩的価値が高い。このことに何度となく驚かされた。


さて、では、いろいろなレジ袋の歌をみてみよう。

●レジ袋を持って

大きければいよいよ豊かなる気分東急ハンズの買物袋
俵万智 『サラダ記念日』

レジ袋を詠む歌の中で比較的多い取り上げ方は、レジ袋を下げて歩くシチュエーションだ。それはたいてい、日々の食料や必需品を買って帰るところであって、日常の平穏、ささやかな幸福感を描く。

スーパーの袋をさげて歩み来る敵将の首を下ぐるごとくに
沖ななも『白湯』
ちょっと奮発してメロンなどを買ったかな?

スーパーの薄い袋を柑橘で充たして運ぶ春の自転車
嵯峨直樹『半地下』

二人で持つシチュエーションは、二人の関係などを表す。

感情の作り置きってできないと言いあいながら持つレジ袋
小野田光 『蝶は地下鉄をぬけて』

さみしさを二等分してレジ袋あなたの方がわずかに重い
toron*『イマジナシオン』


こういう歌もあった。
二種類のインスリンも入るレジ袋柿の実色づく道を帰りぬ
足立晶子『はれひめ』2021

「インスリンも」の「も」には、「いつもなら夕飯の食材など楽しみなものが入っているのに」という気持ちの省略が込められている。

毛色の違う歌を見つけた。

レジ袋右手から左手にもちかえる木幡神社の大楠の手前
谷口純子 『ねずみ糯』2015


 神社の大樹の前で、レジ袋の持ち手を変える。--これも日常場面を詠む歌だが、なんだか記述以上のことを感じる。
 上の句では左右の手の動きを述べ、下の句では遠い視点からの絵に切り替わるという、ふたコマの絵になっていることがミソだと思う。  
 スーパーの袋(食料などが入っている)を下げて歩くヒト。その手が疲れたか、ちょっと持ち替えてまた歩き出す。(「右手から左手に」の字余りは、持ち替える動作を感じさせて効果的だ。)
 それは、神社の前、樹齢何百年の大樹の前だ。命を超越する神、タイムスパンの長い大楠、そしてせいぜい百年しか生きない人間、という、異質な存在の3者がたまたま重なる。
 そういういわば概念の奥行きのある構図の中で、ヒトが手の疲れというとても小さな問題を解決する。そんなささいな音もない一瞬の命の現場、という実にさりげない臨場感。
 非常に精密な歌であると思う。 

●半透明

レジ袋の多くは半透明だが、まだ「半透明」という特徴を詠む人は少ないようだ。

半透明レジ袋ゆゑうつすらと中身の見えてこれはアボガド
喜多昭夫
『青夕焼』

アボカドの濃すぎる緑とパプリカの黄に紗をかけているレジ袋
喜多昭夫『いとしい一日』2017

※「紗(しゃ)をかける」という言葉を知らなかったので調べました。
紗とは生糸の織物の一種、透過性のある細い糸で荒く織り込まれた布。レンズに被せて被写撮影し
写真のイメージをソフトにすること。


●レジ袋が生き物などに見える

兎ひとつ座れる形にレジ袋ベンチにありて夕暮れてゆく
小潟水脈『時時淡譚』

枯れ枝にはためく白い木蓮はずっと前からレジ袋だった
千種創『砂丘律』2015

ワタシ的あるあるは白猫。
足元に白猫がいて、踏まないように跨いだらレジ袋とか、
白猫が阿波おどりしてると驚いたがレジ袋だったとか。


●先行きの不安

レジ袋が生き物にみえることに関係すると思うが、風に翻弄されてふと命を帯び、舞い踊りながら飛ばされていく姿は、先行きの不安を感じさせることもある。

風に舞うレジ袋たちこの先を僕は上手に生きられますか
従順なレジ袋たち河口まで運ばれふいに惑いはじめる
法橋ひらく 『それはとても速くて永い』2015

秋の道ひかりを抱いてぱるぽるとレジ袋ひとつ転がりてゆく
千葉弓子@ちば湯「かばん」2025年1月号新春題詠「袋」
※作者名は1月号にはなく、後日明かされた。

 この歌は、一見幸福感を詠んでいるように見える。が、今は期待に膨らんで「ぱるぽる」と楽しげに転がっていくレジ袋には、悲しい末路しかない。じきに希望の光は消えて残酷な未来が来てしまう。つまり、現在の「明」のみを書いて、未来の「暗」を暗示するというレとリカルな歌であると思う。
 未来のわからなさはときにトリックかとさえ思えるが、この歌のレトリックはそのトリックを体現しているようにも思える。

●レジ袋の要不要を告げる

レジ袋いりませんってつぶやいて今日の役目を終えた声帯
木下龍也 『つむじ風、ここにあります』2013

世界とのあいだにいつも「あ」を挟む あ レジ袋つけてください
まるやま(『短歌ください 君の抜け殻篇』2016より)

レジ袋断り牛乳素手で握る2020を生きているきみ
伊藤紺 (「短歌「いま」」2020年7・8月 特集:癒やしながら より)


●レジ袋有料化

レジ袋は2020年7月1日有料化された。
時事ネタのためか、世間話のような感じ。

ともかくも今の幸せ享受するレジ袋代五円を払って
蒼井杏『瀬戸際レモン』

西友のレジ袋(M)2円なり買うとき今日は怒りが湧いた
染野太朗 「詩客」2013-02-22



 レジ袋の歌は今のところこんな感じ。
 数年後にまた様子をみたい。


2025年1月29日


2024年10月27日日曜日

ちょびコレ36 △△という字が◯◯に見える など

  「ちょびコレ」とは、

「ミニアンソロジー」というほどの歌数はなく、
「レア鍋賞」ほど少なくもない……、
そんな、ちょっとした短歌コレクションです。

のつもりなのですが、今回、歌数がすごく多くなってしまいました。


馬の字は馬に似て見え牛の字は牛と見え来る文字のフシギ
ルビ:文字【もんじ】
奥村晃作

■◯◯が△△という字に見える/△△という字が◯◯に見える


文字の形はときどき何かに似て見える。逆に、何かが文字に似ていると思うこともある。

そりゃあ象形文字だから、似ていて当たり前、という場合もあるが、意味などに全く無関係に似ていると感じる場合もあって、それを歌に詠むということがけっこうある。

「無関係なものに類似点を見出して、そこになんらかの意味、情趣などを見出す」というのは、人間特有の能力であり、思考の娯楽のようなものではないだろうか。

無関係なものどうしが似ている、というのは、おもしろいし、少し神秘的である。
同音異義語なら「だじゃれ」、人ならば他人の空似。文字の形なども、だじゃれのような、空似のようなおもしろさや神秘を感じさせると思う。

砂浜に残る足跡 その全てがもしももしもという字に見える
土居文恵「かばん」202410


溶けだしてしまったソフトクリームは舌を@の字に動かして食う
千葉聡『微熱体』

文字盤の数字は虫に見えるけど おはようわたし おそらく朝だ
兵庫ユカ 『七月の心臓』

長距離を走り終えたる少年のひざVの字をさかさまにして
俵万智『かぜのてのひら』

きれいなものからきりはなされてあたしYの字ぱちんこどこへやったろう
飯田有子『林檎貫通式』

土壁の「キ」と「サ」と「キ」など月影に静かな蜥蜴写字生に似て
雨谷忠彦「かばん」200112

雀のようなタイの文字よいっせいに飛び立つときを待っているのか
ルビ:文字【もんじ】
俵万智『チョコレート革命』

人あまた乗り合ふ夕べのエレヴェーター枡目の中の鬱の字ほどに
香川ヒサ 『テクネ―』

四季を知りプールの底のⅠの字が魚影に見えなくなって それから
櫻井朋子『ねむりたりない』

山といふ字を書けば山が見えて來る故郷の山の白いかなしさ
前川佐美雄 『白鳳』

火の色の虹を見ていた『戦争と平和』の「と」の字のようにしゃがんで
千葉聡「かばん」200112

安寧はひとになじまずほのぐらい空にくの字の雁になりたい
井辻朱美『クラウド』

モノリスを脱いでもYMCAのYの字の人似のポーズです
鈴木有機「かばん」200112

パソコンに打ち出されたるQの字が風船にしか見えない 眠い
松木秀『色の濃い川』

コバルトのとかげ現れ陽を返すÇのお前のシッポセ セディーユ
杉崎恒夫『パン屋のパンセ一』

NZNZNZN(風に吹かれて転がってます)
龍翔 『Delikatessen/Young,Cute』

いじめには原因はないと友が言うのの字のロールケーキわけつつ
江戸雪『百合オイル』

行く春の固定電話がなつかしいコードをのの字のの字に巻いて
田村元『北二十二条西七丁目』2

しまいには四百四病にも死にも飽きシーツの皺も「し」の字の寝台
高柳蕗子『あたしごっこ』あいうえおごっこ



★特設 川の字

川の字の家族をつつむ梅雨ふかし水に流せぬくらしのくらし
三枝昻之 『太郎次郎の東歌』

川の字で眠ればそこが故郷か遠くの角で鳴るクラクション
法橋ひらく 『それはとても速くて永い』

ほの昏き昭和の森でちちははと川の字になり寝ねし日々あり
笹原玉子『われらみな神話の住人』

子と我と「り」の字に眠る秋の夜のりりりるりりりあれは蟋蟀
俵万智『オレがマリオ』

たどりつく岸辺はしらねどわたしたち川の字に寝る。遠くまでゆく
笹原玉子『われらみな神話の住人』



戀という字を分析すれば 糸し糸しと言う心

妾という字を分析すれば 家に波風立つ女

■分解系

文字を分解するなどして意味を見出し、暗記や字謎のために七五調にまとめる、ということがある。上記のようなものとしては「櫻」は「木の横の二階(二貝)の下に女かな」と覚える。(「桜」なら「木の横に三本角の女かな」と覚えればいい。)

上記の例ほど厳密ではないが、文字分解を含む歌はけっこうある。

閂の門の真ん中一の字にぶらさがってまずは懸垂
久保芳美『金襴緞子』

鰆きて夏はどうした鰍きて夏はどうした鮗がきた
吉岡生夫『草食獣 第八篇』

木の下にあれば杳たり木の上にあれば杲たりめぐる日輪
吉岡生夫『草食獣・第四篇』

草かんむりを載せてこの世をわたりゆく母が苺となる夏の朝
荻原裕幸『永遠よりも少し短い日常』

取るの字は耳を取るの意 月光のしじまの中に耳取られたり
伊藤一彦『月の夜声』

冷タイダケノ弁当ヲ食フ 父トイフ字ヲ冠ツタヲノヲ樹ニサシタママ
小笠原和幸 『馬の骨』

目と耳と口失ひし王様が『聖』といふ字になった物語
九螺ささら 『神様の住所』

毒といふ文字のなかに母があり岩盤浴をしつつ思へる
春日井建『井泉』

零の字が雨かんむりであることの火葬場の上へふりそそぐもの
松木秀『RERA』

大の字に一加うれば日曜にほうけ居眠る夫となるらん
小高賢『三十一文字のパレット』より

君の口うばいし癌の文字にくし三つの口をみせびらかして
関根和美『三十一文字のパレット』より

さびしくて絵本を膝にひろげれば斧といふ字に父をみつけた
大村陽子『砂はこぼれて』

いつにても切り岸こころ緩むなと凶を抱かせて胸の字ありや
蒔田さくら子『標のゆりの樹』

<愛>といふ文字の心の位置にあるハンバーガーのハンバーグ食む
大塚寅彦『夢何有郷』

「盥」とは両手で水を掬ふ皿その字思ひぬ人を待つとき
高野公彦『天平の水煙』

「胸」という字の中の×を書くときに力を込めてしまう日もある
島本ちひろ 『あめつち分の一』

「愛」の字の中にたくさんヽがある 書き続ければいつか芽が出る
ルビ:ヽ【タネ】
詞書 この世で一番みじかい愛の詩は/愛/と一字書くだけです 寺山修司
千葉聡『微熱体』

夜の虹のかがやきわたる草のうへ文字に還るうつしみわれは
ルビ:夜【よ】 文字【もんじ】
水原紫苑『客人』

片仮名のトの字に一の引きようで上になったり下になったり
落語/蕎麦の殿様

■その他の文字ネタ


蟲の字がほどけてゆくまでマブシイをしばらく感じているのはいいこと
杉山モナミ 「かばん」2016・4

鬯鬯鬯鬯と不思議なものを街路にて感じつづけてゐる春である
荻原裕幸『あるまじろん』

秘密めく昼の読書は鍵穴がまなかにみえる壺の一字に
野田かおり 『風を待つ日の』

選択肢二つ抱えて大の字になれば左右対称の我
俵万智『サラダ記念日』

青春という字を書いて横線の多いことのみなぜか気になる
俵万智『サラダ記念日』

整然と並ぶ机の隙間には無数の十字架(僕には見える)
山田航『水に沈む羊』

丈たかき斥候のやうな貌をしてfが杉に凭れてゐるぞ
ルビ:斥候【ものみ】 貌【かほ】 f【フォルテ】 凭【もた】
永井陽子『ふしぎな楽器』

小の字になって眠れば父よ母よ2003年宇宙の旅ぞ
穂村弘『水中翼船炎上中』

而而而而而泣いているのは私?いえ二〇三のリビングルーム
天道なお『NR』

指の字はひょうめんせきがひろいだけ心の字よりはやく冷えてけ
鈴木有機「かばん」200406

午前中のんびりしていた文字たちはとつぜんたたみいわしとなりぬ
杉山モナミ ブログ「b軟骨」2011/9

記帳して「吉岡生夫」その生はシンメトリーをはつか乱しぬ
吉岡生夫『草食獣・第四篇』

漢字を知らぬ人の前にて腕を組むわれは漢字のごと見えるらし
惟任将彦 『灰色の図書館』

仮名文字に似る雨と聞くこの国の文字【もんじ】は千の象の隊列
天道なお『NR』

ゆっくりと浮力をつけてゆく凧に龍の字が見ゆ字は生きて見ゆ
岡井隆『鵞卵亭』

みらみらと梵字ながれてゐたりけりすきとほるここはいづこのきしべ
渡辺松男『時間の神の蝸牛』

まるで蚯蚓のやうな字体にも孫が見え隠れして揺るるこころよ
田中富夫『曠野の柘榴』

パズルにはpuzzleの綴り まんなかのふたつのzに腰かけてゐる
小田桐夕『ドッグイヤー』

のぎへんのノの字をひだりから書いてそれでも秋のことだとわかる
山階基『風にあたる』

ねねねねねねねねねねねねね っていう文字が段々 ぬ に見えてくる
龍翔 『Delikatessen/Young,Cute』(発行所・年月不明)

コンビニまでペンだこのある者同士へんつくりになって歩いた
傍点:へん つくり
千葉聡『微熱体』

いろは坂君は器用にカーブして「り」の字あたりで見つめ合いたい
柴田瞳「かばん」200212

いの字からろの字を書きて歩きをり酔つてはをらぬとまたろの字書く
椎木英輔『らんぱんうん』

Vの字をみてるとすべりおちたくなる挟まれたくなる なぜ、からだなの?
杉山モナミ  作者HP

Vの字が頭上に解けて降り始む鶴らは夕べの空戻り来て
三平忠宏『出向』

むの字には○がありますその○をのぞくと見えるえんどう畑
坪内稔典『豆ごはんまで』

Sの字のするりと解けて光りつつ青い蜥蜴は草むらの中 (井の頭公園 )
入谷いずみ『海の人形』

「どう元気? こっちは凹を見間違い♡と思うほどに順調」
伊舎堂仁『トントングラム』

〈終〉の字がせり出して来る小津映画〈冬〉の最後の点が上向き
大松達知『ゆりかごのうた』

美しいといふ字のかきだしはひだりうへからそれもそつとそつと
平井弘『遣らず』2021

※この歌、解釈はいろいろあると思うが、私は、うっすら人をなぶるところを連想しそうになる。
考えすぎなんだろうが、「美」という字は「人」がいて、縛られているようだ。
「ひだりうえからそっと」というのも、これまた余計な深読みだろうが、ひらがなのせいもあって、スローモーションで殴るような感じがしなくもない。


■俳句川柳


俳句

雪の朝二の字二の字の下駄のあと 田捨女

さおしかのしの字に寝たる小春哉 小林一茶

「母」の字に最も近きが「舟」よ月明 折笠美秋『北里仰臥滴々/呼辭記』

靴下がくの字に吊られクリスマス 阿波野青畝(出典調査中)

クローバが鬱の字ほどに込み合える 佐藤成之『超新撰21』

Vの字の先頭重く雁帰る ドゥーグル・J・リンズィー 『超新撰21』

川柳

子が出来て川の字形に寝る夫婦 古川柳

子沢山州の字なりに寝る夫婦 古川柳

燕は梵字のやうに飛んで行 古川柳 『誹風柳多留』

鬱の字を縞馬のむれ通過中 倉本朝世

白夜行 百物語 自傷の樹 吉澤久良 短詩ウェブサイト「S/C』



2025・6月追加

漆黒の巳の字がねむる人々の足跡ぎゅっと犇めくなかに
白糸雅樹「かばん」2025・5

減るの字と滅びるは似て口ならば減るし火なら滅びるだけだ
松木秀『Easy Livin’』

横棒は小骨だろうか罪という文字はホッケのひらきに似てる
松木秀『Easy Livin’』


むむむ、横棒といえば、私のこの歌も置かせてもらっていいだろうか。

横棒を増やして春は胸という胸に摑みかかってくる
高柳蕗子 「かばん」2014・01(私家版『未来の福耳』)


2025年12月3日追加

ひざ抱え「ん」の形して小さめの湯船に浸る深夜にわれは
田中徹尾(出典調査中)

うがいして仰ぐ天井蜘蛛の子は∑【シグマ】の形してそこにいる
小島なお『展開図』

2024年9月28日土曜日

「かばん」2024年7月号を読む 3 七月号の歌のピックアップと短評 後編







老猫の50ヘルツのゴロゴロと雨の匂いを瓶詰めにする
たけしたまさこ

 魔女が魔法の材料をストックしておくような感じの記述がおもしろいと思った。「平成の空気缶」(2019年発売)みたいに、見えない中身を空想するアイテム。
 缶詰じゃなくて瓶詰めだし、雨の匂いも入っているなら、透明なスノードームみたいなものも想像した。なぜそういうものをストックしておくのかなど、何かもう一つそれとなくの示唆があっても、とも思った。


追憶はあまりにあわく野にありて羽ばたいていたかつての日々の
坂井亮

 進化の過程で人間に依存して生きることになった「蚕」という種を詠む一連。
 この歌の「追憶はあまりにあわく」は、進化の系統樹を遡る「追憶」であって、個体のそれではない。「野にありて羽ばたいていた」種としての記憶は、遺伝子のどこかにあるかなきか、というところまで薄れてしまった。このことを美しく抒情的に表している。


たはやすく苺は燃える 順番に来る一億人の誕生日
松澤もる

 果物には生身(なまみ)感もあって、形状によるが特に「頭」への連想脈がある。(例えば岡本綺堂の小説『西瓜』では、西瓜と生首が入れ替わる。)そのため果物は、生体の脆弱さを暗示し得る。多少関連して、果物には「爆弾」への連想脈も淡くあって、そこから〈生身の爆発物〉というイメージ展開もあり得る。

 ただし、この歌は苺を詠んでいて、苺の形状のアフォーダンスは、爆発物より炎を思わせる。そこからイメージは、誕生日ケーキのろうそくに飛び、ろうそくといえば命……と、転じながら繋がっていき、読む側はそれを追いかけながら了解する。その感じもおもしろい。

 この一連では果物の〈生身の爆発物〉というアフォーダンスの投影先を、人の生身の体でなく、人間の社会の一触即発の状況へと変更している面もあると思う。


緩やかな疲れ私を覆う頃星と星とがキスをしていた
千春

 一日の仕事で自分が疲れに覆われるころ、頭上に星がたのしげにきらめく美しい夜になる、という歌だと思った。天地の層がケーキみたいだ。

 ただ、読み直してみて、二首前に「あなたは星の神様」というフレーズがあることに気づいた。あなたが星なら、すごく違う解釈も可能だが、いずれにしてもきれいな歌だから、どちらでもいい。


世界で一番白に近いという紙の名刺を渡す白とは何か
田中赫

 経験則として、「何」と安易に問いかける歌は薄味の謎にしかならない、と思ってはいるが、この歌はその薄まり感がなくてちょっと味わいがある。

 「世界で一番白に近いという紙の名刺」はうまいキャッチコピーで、突っ込みの入れ方を考えさせる程よい刺激を含んでいる。脳内でさまざまなリアクションが起こり得るわけだが、「白とは何か」という応じ方にはわずかにズレがある。脱線まではしないが、脳内の線路の分岐器がふと作動しちゃって禅問答みたいな路線にガタンと移る、その微妙な体感(体感ではないが似たもの)があっておもしろい。


この店に白人年配女性客!…巧みに操る日本の女…
ルビ:日本の女【Japanese Lady】
久保明

 いまパリのオリンピック開催中。さして興味のない私でも、小柄な日本選手が勝つとあっぱれと思う。
 この歌の「白人年配女性客」はきっと大柄で貫禄があるんだろう。なぜなら漢字7文字で「はくじんねんぱいじょせいきゃく」とすごく音数を使い、かたや「日本の女」は4文字で「にほんのおんな」なら七音。ルビのほうも「ジャパニーズレディ」で8音。つまり文字数のアフォーダンスで体格を伝えてきている。客あしらいの上手い小柄なスナックママを少し誇りながら見守る常連男性客。そんな視線が読み取れる。


チューリップ夜にはすぼみ昼ひらく春は花びら蕊天を刺す
江草義勝

 植物は足で移動はしないけれど、積極性・能動性はある。この歌ではチューリップのそんな自然な営みを詠んでいる。

 かすかに性的なニュアンスがあるけれど、それは人間の空想しがちな淫靡なイメージではぜんぜんない。そもそも花というものが植物の生殖器なのだから、性的なのは当前であり、とても健康的なさまである。


みな母の胎から生まれ今ここにゐる観る方も観られる方も
大黒千加

 一連は上野公園のことを詠んでいるようなので、この歌は動物園での感想なのだと思うが、不思議な空間把握に注目した。
 母の胎にはたくさんの出口があって、すべて此の世に開いている。みんなもともと母の胎という同じ場所にいたのだが、それぞれ別の出口から生まれ、ここでこうしてばったり出会っている。ーーそういう図として面白かった。


山道はいつか夕暮れ遠茜行きあう人はみな影がない
松本遊

 「いつか夕暮れ遠茜」は童謡にしたいようなノリの良さ。そして、「みな影がない」には、「とおりゃんせ」の「行きは良い良い帰りは」的な怖さも漂う。
 昼と夜の境目である夕暮れは、自分はもとのまま周囲が異世界になるような恐ろしさがある。そして、浮足立って帰路を急いだり、夜に向けてくり出したり、幽かな活気のようなものもある。
 「行きあう人はみな」は、与謝野晶子の「清水へ祇園をよぎる櫻月夜こよひ逢ふ人みなうつくしき」を遠くこだまさせ、総合してファンタジックな美しさを秘めた歌だと思う。
(それとも「案外事実」というやつだったりして。もしかして山道には実際に影がなくなる時間帯があったりします?)


邸宅の窓といふ窓見上げてゐたり滝の途中のポケットパーク
笠井烏子

 ポケットパークとはチョッキのポケットみたいに小さい公園のこと。邸宅の窓をそれに見立てる明るい感性に惹かれた。たくさんポケットのある巨人の胸を光が滝のように流れ落ちるような邸宅を見上げる。そういうアングルだと思う。

 このほか「理論武装もままならず狐に走る稲荷寿司つくつては窓際の席」という歌の心理的ドタバタ感も捨てがたい。凝縮度が高いのは「狐に走る」だ。「私欲に走る」等ある状況へ急激に傾くことを表す言い回しだろう。理論では勝てない何かを狐的に化かす作戦、のつもりがなぜか稲荷寿司に転じ、窓際の席に退避。そういうトホホ的な流れか。


舌出せば針を千本のまされて達磨拳万、鬼一匁
浅香由美子

 「舌出せば針を千本のまされ」という、地獄でもランクの高そうな拷問もさりながら、下の句「達磨拳万、鬼一匁」に惹かれた。これは造語だろうか。意味不明だが、諺などから切り取った「達磨・拳万・鬼・一匁」が混じりあって生成されたものか? その生成の迫力はいかなる意味にも勝る気がした。

 七首目に「妄執は抗えぬもの通過する電車に吾の亡霊を見ゆ」があり、裡に秘めた、妖怪のようにおどろおどろしい妄執がテーマであるらしいとわかる。一連には和風の妖怪ドラマふうの絵になる歌が並び、一見して植物が多く(山荷葉、白き大藤、蛇苺、赤き曼珠沙華、白き蓮)、それが赤と白である。その配色にも何か寓意がありそうだ。


三宮またなくあはれなるものは薄暮浜風はるかなる月
佐藤元紀

 「源氏物語」はほぼ忘れたので、内容的には多くを読みもらしていると思うが、景色のよい場所、失意の男性、酒、恋人らしい女性、という取り合わせの王朝風のファンタジーとして味わうことはできる。

 この雰囲気を支える要素のひとつに音喩がある。掲出歌では同音の畳み掛け(継起的音喩というらしい)がそれとなく打楽器的な役割をしている。
 「は」音が、上の句に一度目立たずに鳴り、下の句は「薄暮浜風はるかなる月」と「は」のつく語で3回畳み掛ける。しかも、その語の音数が3・4・7(はくぼ・はまかぜ・はるかなるつき)と増大してリズムを刻み、情感をクレッシェンドしていく。他の歌にも継起的音喩が駆使されていて、それぞれに異なるリズムにいわば作曲されていると思った。


一人暮らしの部屋の机や椅子などの家具の埃を拭き取っている
来栖啓斗

 最初、それがどうしたと思いそうになったが、机や椅の埃を拭き取るだけ、ということは、ごしごし拭きとるような汚れがないということだ。
 それはつまり、人が使わないということ、そして「机や椅子」は実用品でなく、そう、まるで置物の美術品みたいなものであることを示唆する。「一人暮らし」の静まり返った空気感までも、質感として描き出されていると思う。


でたらめにパズルの数字をうめていく論理のかけらもない気高さで
森野ひじき

 気高さと愚かさには接点があるかもしれない。思考することを拒否してパズルをでたらめに埋める。――愚かさのせいでそうすることもあるが、無敵の無垢という気高さも、けっこう破壊的かもわからない。

 今どき、「罪のない者だけが石を投げよ」と言えば、「わーい、私には罪なんかないから石投げまーす」みたいな人が押し寄せ、石を握りしめて行儀よく行列をつくりそう。


なまくらな包丁を研ぐよみがえれよみがえれよと指押し当てて
大池アザミ

 「よみがえれよみがえれよ」のところ、なんだか人工呼吸みたいな真剣さ感じられるリフレインだ。
 一連には、無聊の日々を思わせる歌(「三食をきちんと食べるだけの人で過ごした今日がもうすぐ終わる」等)もあり、包丁研ぎのついでに、なまくらになった自分を蘇らせたい、という気持ちも読み取れる。


ベランダに立って僕らを見下ろしている人の腰まで伸びた髪
土井礼一郎

 読みながらふと、「親という字は木の上に立って見る、と覚えたっけ」と、余計なことを連想したが、あながち外れでもないだろう。実際、マンションの中庭で遊ぶ子をベランダから見おろす親の私はひとりだったことがあるし、髪はロングだし。

 ただ、「見下ろす」という行為のどこかから、妖異化、永遠化(そんな言葉あったかな)に導く細い糸がでているような……。そして、見上げる側からも、高いところの人はふだんと違って見える。西洋の古い建造物の高いところから街を見下ろす彫刻みたいに、やはり少し妖異化、永遠化しないだろうか。その僅かな感覚が増幅されていると感じた。


父さんの家は母さんの家になりいつ行っても夜みたいに静かだ
小川ちとせ

 「父さん」は何らかの事情(他界とか離婚とか)でいなくなり、それまで「父さんの家」と呼んでいた実家を、「母さんの家」と呼ぶようになる。
 成人した子どもの側のそうした意識の変化を、この字数で無理なく伝えている。「夜みたいに静か」というのも、実家が活気をなくしたことへの喪失感と、そこに暮らす母を案ずる子の立場の心情で、それが説明抜きでわかる。


春は行き決まった答えを持っていないものばっかりが光って見える
生田亜々子

 これは、春という準備期間が終わって、それが整わなかったものたちだろうか。注目したのは、そういうもの「ばっかりが光って見える」という把握だ。
「光」は圧倒的に良いイメージで詠まれるが、悲しい光りかた、虚しい光りかたも表現できる。
 一般的に、「答えを持っていない」のは輝けない状況と思われるが、「決まった答え」を得た者たちは早々に去り、あとに残ったものが、散らばったガラスのかけらみたいに、痛々しく光っているのかな、と思った。 


山手線の高架の影を踏みながら日暮里田端の路地裏を行く
悠山

 一連全体は、山歩きの歌のような趣きのある文体で、散策中の街を目がとらえて描く臨場感がある。
 だがその一方、脳内で何か思念の底流にあるものを心が辿ってもいるかのようで、(散策とはそういうものかもしれないが、)それゆえの白昼夢的なテイストも少し混じり、隠し味的にそっと効いているみたいだ。、


初夏の町屋小暗き土間の奥岐阜提灯の蒼く灯れる
入谷いずみ

 昔合戦のあった地を旅している途中で見た提灯。土間の奥の暗がりに灯る青い炎は神秘的である。
 時空を超えて灯り続ける歴史そのものの魂を見た気がしたのかもしれない。漢字の続く歌のなかで、三回の「の」のところは暖簾を分けて進む心地がして、そうした構造も歌の内容にマッチしている。


臍のしたに七米もの腸がゐるとてもとつてもおとなしいのよ
久保茂樹

 「脳みそとはらわた」と題された一連は、「仔ひつじの茹で脳みそ」を食べて、その脳みそが消化管を下っていく過程を詠んでいる。 掲出歌には「脳みそ」と書いてないが、作者の意図としては「脳みそ」が腸に到達した感触を詠んでいるのだろう。
 消化管の紆余曲折は、川下り的なアトラクションめいている。「腸がいる」の「いる」が効いて、生きた大蛇の身の中を川下りするみたいだと一瞬思う。内臓というものはなんとなく気心知れない。「おとなしい」はずが、急に暴れ出すかも、などと波乱も予感される。


さみどりは緑雨のたびに深くなる私はここで何をしている
Akira

 この一連の歌は、ひとつひとつ、何か応答みたいなフレーズを求めているな、という感じを受けた。
 何か添えたい……。それはたとえば「我が身一つはもとの身にして」みたいなフレーズだが、なんだろう、と考えながら読み進んだら、最後にこの歌があった。
 私はここで何をしている。
 これか、これだったか、と納得した。


賛成をしないくらいで恨まれるだから水田になるんだよ
藤本玲未

 賛成をしないくらいで恨まれるような窮屈な状態の集団だから、水田みたいな状況になるんだよ、という歌だろう、と思う。読むうちに、稲が同じぐらいの高さに育ってひしめいて、稲たちが少し頭を下げ気味の元気のない挙手をしている水田の映像が思い浮かんでくる。
「実るほど頭を垂れる稲穂かな」は美徳だが、目立つ稲穂はカカシが睨む、っていう七七がつくのではないかしら。水田て。


ナポリタン巻く一瞬に生む銀河 君は銀河を幾度も食べる
折田日々希

 「銀河」は渦巻いているので、渦巻きや廻るものと重ねて詠む歌がときどきある。そのなかでスパゲティはかなり斬新だと思う。
 また、「銀河」には、(おそらくビッグバンのイメージが手伝って)「産む」「生まれる」といった連想脈もある。そして、「生」といえば「死」がセットの対立的概念だが、ちかごろ、「生/死」じゃなくて、「生/命を食べる」という対立的セットがひそむ歌を散見するようになってきて、この歌もその仲間であるようだ。
 つまりこの歌には、新しい要素が二つ含まれている。


耳鳴りが酷くて、とだけ囁いて朱色の腕時計を預けた
土居文恵

 なぜか死に臨む感じが漂っている。自分の今際の言葉を(、といっても死はあまり意識はせず)誰かに語っているみたいな……、いや、死者が、自分の生の回想を語り終える最後のところ、みたいな、回想の口ぶり。

 そして、「朱色の腕時計」が鮮やかで、対照的に、周囲も語り手もモノクロに翳る。戻れない夢のような生の記憶の中で誰かに託した時計が、はるかな朱色の点になり、ぽっちりと見えているような感じがする。そういうふうに絵になる。


腰掛けるときの「よいしょ」でご機嫌ははかれるミスの報告は今
ソウシ

 パワハラ上司だろうか。その仕草にいちいち振り回されて過ごす、安らぎのない日々。それが如実にわかる歌だ。もう1首は「炊飯器に労られつつ一日の後悔をするまだ一ヶ月」というもので、これも「まだ一ヶ月」という部分の切実さに驚く。

 にんげんは周囲の人や物のアフォーダンスの中で自らを把握していることを改めて思う。そこをストレートに描いた歌だと思う。


明日にはハクモクレンが咲きますよ『きらきら星』から始めましょうか
白糸雅樹

 楽器の練習の場面のようだが、どうしてだか、これはエンドレスな夢のような日常、あるいは日常のようにエンドレスな夢の中みたいに思える。

 レッスンのはじめの言葉は「明日には◯◯が◯◯ですよ」と毎回少しずつ変化するが、そのあとは毎回同じ「『きらきら星』から始めましょうか」であるような。

 進むことなく、なだめられ続けていく日々。だが、恐ろしくはない。老後の施設ならこういうやさしいエンドレスが普通だろう。いやもしかすると、老後じゃなくて生後の日々も……。


側溝に光る小袋おちていて ねるねるねるねの2番目の粉
蛙鳴

 「ねるねるねるね」(複数の粉などを混ぜて練って変化を楽しむ食玩。粉の順番が重要)の粉の袋など、ただのゴミである。
 だが、側溝にチラッと見えただけで、いまこの食玩にはまっている子ども、そんな子ども時代を卒業したぐらいの年代の人、そして、子どもと喜怒哀楽をともにしている親なら、それが何なのかがわかる。

 歌は、どの立場で読むかで内容が少し違ってくる。現役の子どもにとっては、「誰か大事な粉をなくした」という単純な情報。子ども時代を終えて大人になる段階の人は、「2番目の粉」というプロセスの喪失を深刻に感じるかもしれない。そして、親の立場の人は、「ひと目見てこれがなんだかわかる自分」に親としての誇りをおぼえる一方、自分自身の「ねるねるねるね」はどうしたかと考える可能性もある。


君が居ぬ世界で吾は生きられぬ 裸足で土を踏んでかけ出す
榎田純子

 「裸足で土を踏んでかけ出す」という記述から想起される、足取りのどたどた感がポイントだ。
 読者はこの場面に、「しかし、この先のその生きられぬ世界で、この人は生きねばならないんだろうな」と、歌に書いてない未来を読み取るだろう。
 こういうふうに読者とやりとりしようとするアフォーダンスの歌もあるんだなあと思った。


さぷさぷさぷさぷ君が食べてるご飯の幽霊明日からもここにいてね
森村明

 猫だけでなくご飯までいっしょに幽霊になっていることも含めて、これは事実を詠んだ歌である。
 だって、ご存知のとおり、猫は死んでもいなくならないのだから。
 うちの猫も去年の暮に二十歳で普通の生を終えたが、そこからは不可視になっただけで、今も変わりなく、ドアのすきまをすり抜けたり、音をたてて飛び降りたり、カサカサいたずらしたりしている。


(知ってた?)(思い出してる)白鍵は口に入れたら冷たいのだろう
佐々木千代

 「白鍵」というのはピアノの白黒鍵盤の白いほうだろうか。ふと白骨を思い浮かべそうになった。
 鍵盤は歯のように並んでいるが、実は長い棒で、ピアノの内部まで伸びており、線を叩いて音を出す仕組みになっている。そういえばグランドピアノのなかの鍵盤は、肋骨みたいに見えたが。

 前半の( )の部分は、ピアノの霊みたいなものの会話だろうか。後半、白骨がアイスキャンデーみたいで、ピアノの霊がすっかり生身を忘れている雰囲気がおもしろい。


デパ地下があるデパートに救急車が曲がってくとてもしずかな月夜
小川まこと

 なぜか人の気配がない。これは人間の街であるはずで、救急車が走るなら、救命士や患者が存在するのだろう。だが、人を省いて描かれた絵のように人影はない。人間を無視し、街を物体として見ると、こういうクリアな景になると思う。

 そのかわりなのかどうか、「デパ地下があるデパート」というところ、なんだかデパートの「身体」を意識させられた気がして、おもしろい。


地球には一億丁のカラシニコフ ヒトをなんども滅ぼすに足る
嶋田恵一

 ヒトをなんども滅ぼすに足る武器はカラシニコフだけではない。たとえば核兵器は地球を十個破壊できるほどあるそうだ。そうしたものの中からこの歌は「カラシニコフ」を選んで詠まれたのだ。試みに上の句が「地球には一万発の核爆弾」(実際には一万七千とからしい)だったらどうだろう。地球には一億丁のカラシニコフ」を比べると、迷わずカラシニコフに軍配だ。
 なぜかというと人が手に持つ武器だからだ。しかも「カラシニコフ」は人名みたい。人が人を直接的に殺すという面が、核兵器よりも強いと思う。
 そのほか、「カラシニコフ」はなんとなく植物名ふうで風情があり、雑草の「ヤブガラシ」などがはびこるさまが、言語野のすみに見え隠れする、という要素もあると思う。


野良の瞳にひとはどんなに巨きかな神話のごとく日々を過ごさむ
瀧川蠍

 「野良」といえば普通は犬猫だろう。大きい人間たちに囲まれて共存・依存・ときに敵対して生涯を過ごす。その状態を巨人族のいる神話の世界にいるようだ、と捉えている。「神話」をこういう比喩に使うのは珍しいと思う。

 さて、これは、犬猫のみならず人間にも当てはまる話だろう。毎日テレビなどのメディアでいわゆるビッグな人たちの活躍を見て暮らしている私も、神話な日々を過ごしていると言える気がしてきた。


内臓の書を持ち帰る 図書館は内臓の書の不在となりぬ
松山悠

 言葉と事実が撚り合わさって面白い味わい。
 事実面は、内臓について書いてある書物を借り出して持ち帰ると、その「内臓の書」は図書館の外に出て不在となる、という、まあ当たり前なことだ。が、図書館の蔵書の「蔵」は「臓」と音も字面も似ているために、図書館の内蔵を持ち出したような空想に誘われる。
 さらに、図書館には少し神聖なイメージもあるため、二度三度読むうちに、「聖遺物」「仏舎利」など(聖人の身体の一部も神聖なものとして祀られる)への連想脈も刺激されてくる。


何回も何回も食べてたしかめるそれはあなたの右手のこぶし
土井みほ

 一瞬タコかしらと思ったが、嬰児のしぐさを詠んだ歌。「何分の一ほど同じ遺伝子がいのちを燃やしている腕のなか」という歌もあるからわかったが、むろん単独でもピンとくる人はいると思う。

 人間の子は、人生の始まりに、まずはこういうふうに自分の身体の確認し、次にその手足のできることを見つける。そのパワフルな様子(タコのような力強さ)だけをストレートに捉えている。


まよなかの闇にはなたれ電磁波の濁音ひかりオーロラとなる
歌野花

 オーロラは宇宙空間の電磁波の高エネルギー電子が大気に衝突して発生するものだそうだ。
 美しい現象を起こす仕組みに衝突という作用があることに着目していることがおもしろい。加えて、そのことを、「電磁波」の「で」「じ」という濁音と重ねるような書き方をしており、言葉愛もほんのり重ねられている。


切り花とわれと地球儀立つことの重たき部屋をきみはでてゆく
森山緋紗

 「恋人などが部屋を出ていく」という情趣は沢田研二の昔から(源流は、暁の鶏にせかされる古典和歌か)抒情界の定番。掲出歌では、その盤石の予定調和がほどよく生かされ、ほどよくかわされてもいる。

 「立つことの重たき」ものが三つあげられている。部屋にあって目に入ったものをあげたらしい臨場感を確保しつつ、タロット占いで引いたカードの三枚のように暗示的でもある。
 根を断たれて自立できない「切り花」、立ち上がって「きみ」追えない「われ」。ここに「地球儀」という飛躍は想定を超えたが、地球儀は頭でっかちで物体としてでくの坊だし、これは地理の知識なんか全く役に立たない局面なんだと、じわじわ了解されてきた。


 以上、たまに回ってくる前号評当番なので、最初のほうは、歌を読む時の目の付け所の一つとして、アフォーダンスというものを提示し、詳しく踏み込んでみた。そのあとは、一人一首ずつピックアップしてコメントをつける形で、力及ばぬ部分もあったが、さまざまなアプローチを試みた。


2024・9・28


「かばん」2024年7月号を読む 1 アフォーダンスの観点から

「かばん」2024年7月号を読む 2 七月号の歌のピックアップと短評 前編