2020年8月25日火曜日

『短歌の酵母Ⅲ 青じゃ青じゃ』完成

【シリーズ3作目が完成】
『短歌の酵母Ⅲ 青じゃ青じゃ』
沖積舎2600円+税

ホップ・ステップ・ジャンプのジャンプです。

■収録評論
青じゃ青じゃーー神話の培養
青の短歌史
補足編1 青と他の色たち
補足編2 その青はなぜ青なのか

「青」を詠む歌の考察ですが、
忙しい人は、本文を飛ばして歌だけ拾い読みしてもおもしろいと思います。

なにしろ、引用歌は古典も含めて500首ぐらい。(作者は300人ぐらい。)

でも、作者本位の短歌評ではありません。
作者たちが思い思いに詠んだ結果として、短歌の言葉の世界でイメージが成長していくさまを観察しています。

自分としては、すごい労作。
いま、羽をむしりきったおつうのような感じ。

追記
この本にいただいた書評です。

書評

東京新聞2020年10月10日書評1  東京新聞2020年10月10日書評2 

歌人が発酵させる語彙 土井礼一郎


北海道新聞2020年10月18日書評 田中綾(書棚から歌を)


大井恒行の日々彼是 2020年9月2日


この他の著作
これまでに刊行した歌集や評論集は、こちらにまとめてあります。

2020年8月23日日曜日

青010 ブルーシートの海原を征く艦隊は喫水線より下をもたざり 斎藤真伸

ブルーシートの海原を征く艦隊は喫水線より下をもたざり
斎藤真伸『クラウン伍長』2013

腰から下の無い幽霊みたい


もとになっているのは花見の光景だと思う。

実景として、海と見まがうほどブルーシートを敷き詰めるとしたら、代表的なのは花見風景だろう。

(本当の花見の実景では、普通のレジャーシートなど他の色も混じっているのが普通であり、「ブルーシートの海原」は実景ではなかろう。
この歌は花見の場面に通じることは確かだけれど、かなり心象寄りであるはずだ。)

幻想的で美しい桜のもと、いわゆる「ハメを外し」て酔っぱらう人々のへんな勇ましさ。それは、喫水線の下部分のない艦隊みたいな感じ、ではないだろうか。

そして、この艦隊には、腰から下の無い幽霊みたいな心もとなさがある。
足下、というか喫水線以下は「ブルーシートの海原」になってしまって、本来ならその下にあるもの(地面や地下)と絶縁されてしまっているからだ。

ブルーシート≒絶縁


ブルーシートは、防水防塵のために工事現場などで用いるが、ニュースでは「あのブルーシートのあたりが事件現場です」などと、平和や安全が破られた目印のように目に入る。

その印象からだろう、短歌に出てくる〝言葉の「ブルーシート」〟は、水や塵を防ぐのでなく、「日常からの絶縁」を示すことが多いようだ。

 ★ブルーシートについてはこちらも御覧ください。


桜の木には腰から下がある

喫水線の下には深い海があるべきである。海には太古からの命の歴史がある。
「喫水線より下をもたざり」を地上に置き換えるなら、いわゆる「地に足のつかない」状態だ。

さっきこの艦隊を「腰から下のない幽霊」と書いた。一方、桜の木には腰から下がある。

花見というものには、日常のストレスを忘れる享楽的な面があるが、桜の木は、地に足がついている。太い根が強く地を掴んで、地から養分を吸い上げ、花を咲かせ、降らせる。そういう装置だ。

足下には、天からの恵みの受け皿としての大地があり、その地下には死者の国もある。
花見は、そういう天地のありかた、摂理を忘れない。享楽的ではあっても、生者のおごりをたしなめる要素を捨てていない。

この歌の、ブルーシートで地面から絶縁された人々の享楽は、喫水線から下がない。この歌は、花見より一段階すすんだ危うい享楽状態を捉えていると思う。


青009 友達がブルーシートでくるまれた可能性とその春のからあげ 加賀田優子

友達がブルーシートでくるまれた可能性とその春のからあげ
加賀田優子  「なんたる星」2016年12月号

ブルーシート=日常世界との絶縁


「ブルーシート」は近年短歌に詠まれるようになって用例が増えている。
現物は、防水防塵のため工事現場などで使われるほか、レジャーシートなど、用途は広い。

短歌の中の「ブルーシート」は、事実を超えて、強い遮断、絶縁のシンボルとして使われるようだ。
日常で実際に目にするであろう工事現場のそれはほとんど詠まれない。
印象が強いのは、ニュースで目にする事故や事件の現場を覆うブルーシートだ。記者が「あちらのブルーシートのあたりが現場です」などと言う。
あそこに日常的ではない死があった、という目印のように、あざやかなブルーが日常から浮き出て見える。
日常からの遮断、絶縁のイメージは、そういう映像からきているのかもしれない。

この歌のように、死者を覆う「ブルーシート」に言及したり暗示したりする歌もぽつぽつとある。
(「ブルーシート」で人をくるむとなれば、そうとうに尋常でない死を思わせる。
死者は生者と隔てるけれど、一般的な死者なら、白装束と顔のうえにかける白布程度である。)

そんな状態の死を目にすることなどまずないだろうが、そういうふうに絶縁される死を思い浮かべる必要が、現在の世の中に生じているのだろう。

生と死にはもとより隔たりがある。
が、「ブルーシート」は普通の死を絶縁するのではない。日常世界で普通の扱いができない死を、とりあえずブルーシートで覆って絶縁する。
「ブルーシート」は建設現場などでよく見かける万能シートだが、印象が強いのは、ニュースの映像ではなかろうか。
(花見のブルーシートもなかなか興味ぶかい。長くなるので別項で書く。)

からあげ=弱肉強食


というわけで、この加賀田の歌の「友達がブルーシートにくるまれた可能性」とは、普通の死に方ではなさそうな訃報がもたらされた、という意味だろうが、注目したのは、そのことと「からあげ」との関係である。

 この場面は、就職が決まって友人たちと居酒屋で乾杯しているところではないだろうか。そんな場面での定番である「からあげ」を頬張っていると、友達の一人が、何か普通でない死に方をしたらしい、と知らされる。

普通でない死に方というのは、自殺や他殺。社会の犠牲とか悪人の餌食とか……である。

声を落として話すような微妙な配慮が感覚を繊細にする。「からあげ」がなんだか弱肉強食的なことを想起させないだろうか。

春は明暗を分ける季節だ。
自分はいま仲間や同僚と居酒屋にいて鶏を食べる「明」の側にいるのだが、いつ「暗」の側になるかわからない。
「ブルーシート」で絶縁するもされるも紙一重である。

「からあげ」の味を、そういう弱肉強食の味としてを記憶した瞬間を詠んでいる。

一読でこのように感じたが、再読すると「解釈はご勝手に。ただし自己責任で」と突き放されるような曖昧さも絶妙だ。

安易な鎮魂ではない


人の死を詠む歌は安易に鎮魂の響きを帯びやすいが、この歌はそうなっていないところが秀逸だと思う。
鎮魂の言説の多くは、死者をなぐさめるよりも、自分側の「いたたまれない気持ち」「心苦しさ」を和らげる効果のほうが強い気がする。

「からあげ」がふさわしい    (「えだまめ」じゃダメ)


弱肉強食だなんて考える必要はない、という人も多いと思うが、これがもし植物性のもの、例えば同じ字数の「えだまめ」だったらどうだろう?

「からあげ」なら弱肉強食のようなきびしい摂理をそれとなくプッシュして、勝ち残っていく冷酷を意識させる。
「えだまめ」だったら、同じ莢から出た豆の明暗を感じさせる効果はあるけれど、昔からあるような抒情化された境地※に落着してシビアにならない。

※例えば、「梅の花 おなし根よりは 生ひながら いかなる枝の 咲き遅るらむ」  藤原清輔
  この歌は、いちおう現世の生存競争みたいなものを詠んでいる。自分が兄弟よりも出世が遅れているとそれとなくうったえたこの歌で同情をひくことに成功し、清輔は昇格できたらしい。
  清輔さんは「牛と見し世ぞ」  もとい!  「憂しと見し世ぞ」の作者。

動物系の食物


なお、今、「からあげ」だけでなく魚を食べる歌など、動物系の食物を詠む歌が増えてぐんぐんイメージを吸着している。

便覧には載らじと思ふわが生にからあげクンを購ひ帰る
田口綾子『かざぐるま』

生前は無名であった鶏がからあげクンとして蘇る
木下龍也『つむじ風、ここにあります』

死んでいるいわしがのどをとおるとき頭のなかにあらわれる虹
笹井宏之『ひとさらい』

伊勢海老のやうにぷりぷり働きて流されてゆく一日もいい
田村元『北二十二条西七丁目』

ご馳走のお礼に歌う 胃のなかの海老とわたしのほのおをうたう
雪舟えま『たんぽるぽる』

天ぷらになりかけのえびすみませんえびグラタンになってください
木下龍也『つむじ風、ここにあります』


食物に見出す抒情が、昔は自然の恵みを体に取り込むところに重点があったが、このごろ違ってきているようだ。
世の中の要請に応じて自分が食材として料理されていく、という方面の抒情を獲得しつつあるかもしれない。

青007 うしろよりにらむものありうしろよりわれらをにらむ青きものあり 宮沢賢治

背後から追い立てる青空システム??


うしろよりにらむものありうしろよりわれらをにらむ青きものあり
宮沢賢治 歌稿(『宮沢賢治全集3』ちくま文庫)

■青空かな?

「青きもの」とは何だろう。何が「われら」を睨んでいるのか。
個別の人はさまざまなものに睨まれ得るが、「われら」という不特定の人、つまりすべての人を等しく睨むものみたいだ。これは、厳しい眼差しの背後霊みたいな「青空」かもしれない。
この歌にもし「青き」がなかったら、「われらをにらむ」ものは太陽だと解釈する人が多いだろう。
「お天道さまが見ている」という言い回しがあるからだ。その太陽は瞳であってその背後に「青」が控えているわけだ。

■背後から追い立てる―― 青空推進システム?

これは完全に私の深読みであり、宮沢賢治の意図とはかけ離れてしまうかもしれないのだが、この「青」が青空だとすれば、前後左右ぜんぶいっしょのはずの空の、後方からの睨みのまなざしにことさら言及したという点が重要だと思う。

前後がある、という捉え方は、
前方の未踏の未来の「青」へと、後方から追い立て続け、立ち止まることを許さない、
みたいな、「青空システム」とでもいうべきものを感じさせるからだ。

ばくぜんと空への畏怖を詠む歌はたくさんあるが、こういう畏怖を詠む歌は珍しい。

★オマケ 背後の青空

背後の青空を詠む歌を少し拾ってみた。
空は爽快感があって無敵の背景だが、脅威や畏怖が味付けや隠し味になっている。

空色を背景にして川べりにそら開きたくなるわなカフェを
谷じゃこ『ヒット・エンド・パレード』

無防備の背がかがむときふんわりと投げとばされる青空の暈
井辻朱美

掃除機をかけつつわれは背後なる冬青空へ吸はれんとせり
小島ゆかり 『ヘブライ暦』

崩れゆくビルの背後に秋晴れの青無地の空ひろがりてゐき
栗木京子『夏のうしろ』

人体はあからさまなる楽器にて青空を背に来るパパゲーノ
永井陽子『ふしぎな楽器』







2020年8月18日火曜日

青008 この人はあなたが産んだ人ですか うつろな青空の瞳たち 東直子


うつろだらけ







この人はあなたが産んだ人ですか    うつろな青空の瞳たち
東直子 角川「短歌」2017年9月号

■解釈1

すごく虚無的な雰囲気の人物に出会う。
まるで空のうつろから生まれた人みたいだ、
と感じ、おもわず心の中で
「この人はあなたが産んだ人ですか」
と空に問いかけた。
見上げたら、その人に似たうつろな瞳が空にたくさんあるような感じがした。

しかし、空といえば、自分の心を投影しやすいものの代表だ。
そのため、「うつろな青空の瞳たち」は、自分の精神状態が青空から見つめ返しているようにも感じられる。
「この人」だけでなく自分もうつろ、みんなうつろ、というふうに、ビリヤードの玉のようにうつろだらけになる感じもする。

■解釈2

上記の解釈は順当だと思うけれども、「この人はあなたが産んだ人ですか」
というフレーズには、読んだ瞬間、もっと深く撹乱された気がする。

それを説明するのがめんどうなので解釈1のほうを採用しているが、
実は。読後、最初に感じたのは、これが誰かが誰かに言ったり思ったりしたセリフでなく、
ある種のぼんやり状態になって、生きた人たちが歩く地上をゆくときに生じた思念のようなものではないか、ということだった。

こういう思念は他者に届かない。
自分の内側にあるのだが、外に投影して、解釈1に書いたようなビリヤードの玉みたいな乱反射効果で、あたりにも空に充満する。それは結局自分の内部を拡大しただけで、そのぼんやりの中を歩いているような感じ、だと思う。

ある種のぼんやり状態とは?

「この人はあなたが産んだ人ですか」

普通は言わない言い回しだが、心が他者と絶縁しているようなぼんやり状態だと、こういう言葉が出てきそうだ。

周囲の人や事象と関係を結べないような、そういう種類のぼんやり状態というのがあると思う。(ありませんか? ない人は以下を飛ばしてください。)

そんなときは普通の言葉が出てこない。
「あら、お子さんですか、かわいいですね、おいくつですか。」
みたいな、社交辞令的に使い慣らした表現ができなくなる。

ーー例えて言うなら、言語中枢には「普通の言葉」の棚があって、ふだんなら、コンビニの棚からおにぎりを選ぶように、手軽に「普通の言葉」を取り出せるのに、その棚がすべて品切れのからっぽみたいな感じになってしまうような感じだ。
でも何か言わなければ、と思って、なんとか目前の相手に関心を持とうと努力をすると、
「この人はあなたが産んだ人ですか」だなんて、すごく変な、手作りの言い回しになってしまう。
ーーいかにも、そういう感じのセリフではないだろうか。

青空はただあるがままに青くて、地上になにが起きようと青いままだ。
だから、果てしなくうつろな、虚無的なたたずまいとして捉える歌は実に多い。

多く詠まれてくれば、ただ虚無というだけでは満足できなくなってくる。
虚無にもいろいろあるから、更に、どんな虚無感か絞り込みがほしくなる。

この歌では、単に空の虚無感を描いただけでなく、関係性を見失うたぐいのぼんやり系の虚無感、として絞り込み得ているとも思う。

※こういうぼんやり、ありませんか。私はしょっちゅうです。
 「ありがとうございます。よろしくお願いします。」
という「普通の言葉」が出てこなくて、かんたんな返信メールに1時間以上かかる、とか。

2020年8月13日木曜日

クツワのネオエンピツが新発売??

クツワのノック式蛍光エンピツが、
〝新発売〟になっていた!!


ノック式の蛍光鉛筆といえば、すごく昔、コクヨのメタクールというのが気に入っていた。

他に、三菱ノックマーク、クツワのネオエンピツというのもあった。
蓋を締め忘れを心配しなくていいし、
裏うつりもない。

たしか200円とかそのぐらいの値段で、普通に売っていて、替芯を買って使いつづけていたが、いつのまにか無くなってしまった。

以来だいじにして、あまり使わないようにしていた。
芯の折れた黄色と、半分使った緑が残っていた。

クツワのネオエンピツは、ネットで入手可能だったが、すごく高かった。
1本1000円以上なので買えずにいた。

今日、大型スーパー売っていたのは、そのネオエンピツだ。
なんと「新発売」で、248円じゃん。

迷わずピンクとグリーンの二本を替芯(148円)といっしょに買った。
家に帰って検索したら、ネットでもこのぐらいの値段で売っている。

芯はコクヨのメタクールと互換できそう。
オレンジと黄色も買っておこうかなあ。

でも、私はコクヨメタクールのメタリックの入った緑が好き。
コクヨも新発売にならないかなあ。


直接の関係はないけど「マーカー」を詠む歌を少し。

赤、橙、黄、緑、青、藍、紫、きらきらとラインマーカーまみれの聖書
穂村弘

世界史の教科書はラインマーカーと頬杖と仲良くなってゆく
千葉聡『海、悲歌、夏の雫など』

さいはての森のふたりをむぞうさにかこむ写真のあかいマーカー
小林久美子『ピラルク』


俳句は見当たりませんでした。
川柳はあったけれども、まだ題材としてこなれていない感じでした。

2020年8月6日木曜日

ミニ34 「季語」という語を詠む短歌

「季語」という語を短歌に詠み込む例がたまにある。なかなかおもしろい歌が多いようだ。


○○は✕✕の季語だ


特に注目したのは「○○は✕✕の季語だ」という言い回しだ。
「うそ。え、ホントに季語だったりする?」というフェイク加減が楽しい。

たまに本当に季語だったりして、なあんだ本当か、と、ちょっとがっかりしたりして。(すみません)

フェイク

「コンビニ」は冬の季語です 笑うためあんまんを抱き肉まんを食う
千葉聡『微熱体』

エリートは晩秋の季語 合理人の孤独を映す水面静けし
中沢直人『極圏の光』

いけません。と言うきみ鳩目が潤むきみ(算数ドリルは初夏の季語です)
柳谷あゆみ『ダマスカスへ行く 前・後・途中』


言い回しは違うが、これもフェイク季語。

(カルシウム不足って季語?)このごろの句会に吸骨鬼はでるらしい
杉山モナミ「かばん」2009・8

本物

原爆忌・七夕 秋の季語なるを確かめしのみ歳時記を閉づ
花山多佳子 『胡瓜草』
※「原爆忌」も「七夕」も秋の季語

自らの下陰に降るひそけさの杉落葉 夏の季語なり
花山周子『林立』
※「杉落葉」は夏の季語

風船は春の季語です風船のようなあなたの心臓にいう
東直子 「文藝春秋」2014・5
※「風船」は春の季語


言い回しは違うが、これも同じ趣向。

「廃」と言えぬ唇乾く冬の夜にビラは舞いたり季語「炉」を乗せて
大野道夫『秋意』
※「炉」は冬の季語


「季語」に見いだされる情趣


「季語になる」「季語が消える」など、「季語」を言葉の〝ひとつの段階〟としてとらえて情趣を見出すのは新傾向で、いかにも歌人的な発想だと思う。

「それは宗教行為ですか?」「数回の中断を挟みます」「いずれは冬の季語になります」
吉田恭大「早稲田短歌43」(2014・3)(『光と私語』にも収録)

手を振って こぼさないようこれからの季語をつつんであげられるよう
井上法子『永遠でないほうの火』2016

海からの呼び声を抱くこの日暮れ(こっそり消えてゆく春の季語)
井上法子『永遠でないほうの火』2016
(「海の声そらにまよへり春の日のその声のなかに白鳥の浮く 牧水」のような歌を本歌として応答している?)

あなたは鏡を見ながら話しをしてる ハイウェイ、この、なつかしい季語
瀬戸夏子「率」第10号(2016・5)

タワー・オブ・テラー あなたが腑に落ちる季語をめちゃくちゃにするであります
ナイス害「なんたる星」(2018・11)

「なる」というのは、良くなったり悪くなったりがあるわけだが、「季語になる」は、普通の感覚では、成長や昇進などに似たランクアップだと思う。
おたまじゃくしが蛙になる、将棋で歩が金になる等に似て、言葉がヒラから役付になる感じだ。
少なくとも「季語に成り下がった」というニュアンスの歌は今のところ見かけない。

「季語になる」というのは明るい要素だ。だから季語が消えるなどすればしんみり系の情趣にもなりえて、短歌にとっては詠みがいのありそうな新しい題材である。

季語にして美化しちゃっていいのかなあ


事象名が「季語」に昇格するということは、少し風流になるから、何事であれ少し美化される。
そして、そのように扱っていい過去のこと、とみなされたとも言えないだろうか。

さっき引用した歌に出てきた秋の季語「原爆忌」。
個人的には、季語にしていいほど昔とは思えない。まだ当事者が生きているし、これからも核戦争や原発の事故は起き得るから、安易に風流や抒情で触れていいのかしら。
源平の合戦ぐらい昔ならともかく、と思う。

でも、いちがいに否定したいわけでもない。
たとえば古事記に出てくるいくさも現代の戦争も同列になるような視点はあると思えて、線引が難しいと思うからだ。

じゃあ過去でなく、今のこの現実に地続きの未来はどうだろう。
未来はこわい。めんどくさい。
逃避して、いわば不要不急の風流な話だけに興じる、っていうのはどうなんでしょう?

これからのことを話すのがキライ 流星や季語について話しつづける
山下一路『スーパーアメフラシ』2017


俳句は「季語」をどう詠む?


俳句にも「季語」という語を詠み込む例はある。

予想では、俳人は季語が好きで誇りに思っている人が多いから、
そのまま書けば「わが家のかわいい猫ちゃん」的になるのじゃないかなあ、
と思った。
わりと予想通りだった。

鮒ずしや食はず嫌ひの季語いくつ
鷹羽狩行

こそばゆき季語の一つに竹夫人
倉橋羊村

季語といふ漢意こそ桜かな
ルビ:漢意(カラゴコロ)関悦史

ゾクとする季語がみごとに決まりしとき
筑紫磐井

季語が無い夜空を埋める雲だった
御中虫


逆に反発するような感じの句もあった。

ぶちまけられし海苔弁の海苔それも季語
関悦史

台無しだ行く手を阻む巨大なこのくそいまいましい季語とか
御中虫


「季語」を詠む俳句でいちばん気に入っちゃったのはこれ。

云うたら然やろ季語もみな人類や
ルビ:然(そ)
永田耕衣『自人(じじん)』


川柳は人生派?


川柳の手持ちデータには「季語」を詠む句がなかったので、「おかじょうき」のデータベースから探してみた。

「季語」を詠む句は6句みつけたが、そのうちの3句が〝生き方〟に関するものだった。
データ数が少ないのでたまたまかもしれないが。


季語のない生き方ばかりしてました
米山明日歌 「月刊おかじょうき」(2016・10)

頼み方下手な親父に季語がない
さざき蓬石 「月刊おかじょうき」(2005・5)

生き直す私の季語を書き変え
きさらぎ彼句吾「月刊おかじょうき」(2015・5)


季語と人生が結びつくのは、川柳独特の発想ではないかと思う。


今日はこんな感じです。

2020年8月5日水曜日

ミニ33 「を見ていた」と終わる歌

ぽとんと落ちる感じ


末尾が「を見ていた」「をみていた」である短歌を集めてみた。

「を見ていた」という終わり方には、5音ぶんの重さで情趣がぽとんと落ちるような風情がある。

データベースの10万9500首のなかで38首が該当した。

本日の好みでピックアップ



だんだんになくなるこころキューピーは臍をさらして空をみていた
東直子『青卵』

垂れ下がる悪意に触れて出てくると眼球だけが夏を見ていた
田中槐

信号を待ちながら鳥を一羽ずつゆっくりと吐く夢をみていた
村上きわみ

ボルヴィックの青いキャップをひねりつつ銀幕に降る雪を見ていた
入谷いずみ 『海の人形』

うつくしい牛の眼をして運命がまだやわらかいぼくを見ていた
佐藤弓生『薄い街』

二日酔いの君が苦しく横たわる隣で裸の空を見ていた
俵万智『プーさんの鼻』

都会的憂愁として駅前の冬の噴水噴くを見ていた
藤原龍一郎 『切断』

火の色の心臓もつわたしたち砂浜がやせるのを見ていた
服部真里子『遠くの敵や硝子を』

首細きダリア窓辺に揺れながら挫折していく君を見ていた
錦見映理子

触れないことで触れてしまった核心があってしばらく窓を見ていた
法橋ひらく『それはとても速くて永い』

くらいくらいおなかのなかで目を閉じて母の思考の川を見ていた
木下龍也『きみを嫌いな奴はクズだよ』

しり取りをしながらふたり七色に何か足りない虹を見ていた
松村正直『駅へ』


ぼんやり系が多め


何かを見る場合、その対象になんらかの興味があるのが普通だ。
が、「を見ていた」と終わるニュアンスは、あまり積極的なまなざしではなさそうだ。

歌を集めてみると、
心身の疲労消耗やなんらかの不快不調による放心状態でぼんやり何かを見るとか、
そういう状態からの逃避や癒やしのために何かを見つめるとか、
あるいは、見ているだけで何もできない無力感とか……、
まあそういった傾向があるようだ。

でも、上にあげた歌は、それだけで片付かないプラスアルファがあっておもしろいと思う。

そのほか、用例は少ないが、「を見ていた」は、
虚無性(他に見るものがない、それしか見えない)の表現とか、
そのときたまたま見ていたというシチュエーションとかもあり得る。
また、空や太陽のようにいつも必ずあるものを見るという言い回しは、「生きる。日々を送る。」という意味にもなる。

なお、俳句川柳は結句が5音なので「を見ていた」という終わり方はしにくいようだ。

ま、今日はこのへんで。



短歌におけるこの種の語感、風情、たたずまい、言葉のしぐさはすごく重要だ。
歌数をほどよく絞り込みたいということもあって、似ているものすべて除外した。
似ているものってどんなのだろう、と思う人もいるだろう。
以下のようにいろんなものがある。

【抽出しなかったもの】
 ・語尾が異なるもの。
  「を見ていました」「を見てた」「を見ていたり」「を見ていたい」等々。
 ・倒置により、歌の途中に「を見ていた」があるもの。
 ・助詞「を」が省略されて「見ていた」だけのもの。
 ・ほぼ同じ意味である「を眺めていた」「を見つめていた」など。