2021年7月9日金曜日

満62:父母と雪 その0 ピックアップ

 ピックアップ

父や母を詠む歌にはしばしば雪が出てきます。

集めてみました。こんな感じです。

まさびしき雪夜や父はおそろしく耳ていねいに洗ひて睡むる
伊藤一彦(出典調査中)

わが父よ汝が子はかくも疲れたり雪降るむこう山鳩の鳴く
岡部桂一郎『一点鐘』2002

あくたびの影立ち上がる雪の中父は背中を朱に染めたる
江田浩司(出典調査中)
※あくた‐び【芥火】 〘名〙 ごみや、ちりを焼く火。 特に、漁夫が、流れついた藻芥(もあくた)を集めてたく火。

子の口腔にウエハス入れあは雪は父の黒き帽子うすらよごしぬ
小池光(出典調査中)

三匹の子豚に實は夭折の父あり家を雪もて建てき
小池純代(出典調査中)

雪の夜を迷ひ来たれる軍服のうら若き父はわれを知らずも
水原紫苑『光儀(すがた)』2015

亡き父のマントの裾にかくまはれ歩みきいつの雪の夜ならむ
大西民子『花溢れゐき』1971

雪ちかき野は劇場のごと昏れつ まづ刺さむ肥りたる父と鷽
塚本邦雄『水銀傳説』1961
長身の父在りしかな地の雪に尿もて巨き花文字ゑがき
塚本邦雄『緑色研究』1965

くらぐらと夜に雪ふれば雪の声つかまえており父の補聴器
辻聡之『あしたの孵化』2018

舗装路の罅の間に解けのこる雪のかなしく父老いにけり
浜名理香(出典調査中)

夕方の吹雪はわれらを隠したり父の車で父を運びぬ
岡崎裕美子『わたくしが樹木であれば』2017

グレープフルーツ切断面に父さんは砂糖の雪を降らせています
穂村弘『水中翼船炎上中』2018

オルレアンに春の吹雪のまんじともえ不意にはげしく日本恋しわが母恋し
加藤克巳『春は近きか』2002
※卍巴(まんじともえ)=卍や巴の模様のように、互いに追い合って入り乱れること。

友人のひとりを一人の母親に変へて二月の雪降りやまず
光森裕樹『鈴を産むひばり』2010 

てのひらに常に握りてゐし雪が溶け去りしごと母を失ふ
春日井建『朝の水』2004

牡丹雪あるいは母に降りけらしわれがうたかたなりけるむかし
塚本邦雄『波瀾』1989

母よ母よ息ふとぶととはきたまへ夜天は炎えて雪零すなり
ルビ:夜天【やてん】/炎【も】/零【ふら】
坪野哲久『百花』1939

頭にかかる雪を払いて顔抱きし母の掌ぬくし雪道のよる
渡辺於兎男(出典調査中)
死してのち死者老ゆるとぞ雪の夜の鏡ひらけば亡母少し老ゆ
馬場あき子『雪木』1987

母の住む国から降ってくる雪のような淋しさ 東京にいる
俵万智『サラダ記念日』1987

ここはまだ母のふるさと玄関の雪は掻いても掻いても積もる
本田瑞穂『すばらしい日々』2004

雪の夜に過去形のうた一つ書く母の一生のはや過ぎたりと
ルビ:一生【ひとよ
齋藤史『渉りかゆかむ』1985

このゆふべ吹雪はげしき天上に父母には父母の浄土もあらむ
永井陽子(出典調査中)

あなかそか父と母とは目のさめて何か宣らせり雪の夜明を
ルビ:宣【の】/夜明【よあけ】
北原白秋『雀の卵』

いかがでしたか。
興味がありましたら以下の本編もご覧ください。

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満62:父母と雪 その3

Ⅲ  〈父+雪〉の特徴


ここからしばらく、〈母〉を離れ、〈父+雪〉の歌に密着して考察します。

■《威厳》《畏怖》など


詩歌のなかでも、また一般的にも、《威厳》は〈父〉のイメージのひとつです。
(現実の個々の父親は人それぞれに個性があるんですけど。)

そして、《威厳》は〈雪〉とも関係があるようです。

遠山にきれぎれの虹つなぎつつわが父の座に雪は降りつむ
辺見じゅん(出典調査中)

《威厳》と〈雪〉のつながりというと、このような雄大な雪山の姿が少し関わっていそうです。
が、次のような歌をみると、〈雪〉の役割は、雪山の雄大さだけでは説明しきれないと感じます。
なんだかわからないけれど。

偉大だった父たちの死よ掌の上の硝子の球の中に雪降る
ルビ:掌【て】
佐々木六戈『佐々木六戈集』2004

父よ男は雪より凛く待つべしと教へてくれてゐてありがたう
ルビ:凛【さむ】
小野興二郎『天の辛夷』1979

長身の父在りしかな地の雪に尿もて巨き花文字ゑがき
塚本邦雄『緑色研究』1965

 おしっこで花文字が書けるほどの長身ってすごい。
 個人的には、威厳ある父を詠む歌群の中でこの歌がいちばん偉そう。笑


また、《威厳》を通り越して、〈父〉への《畏怖》のような感覚をあらわす歌もあります。そういう歌では、なぜか〈雪〉が〈父〉を怖いものに変えてしまうらしいのです。

死ぬまへに孔雀を食はむと言ひ出でし大雪の夜の父を怖るる
小池光『廃駅』1982

鋭角に葱切りゆける包丁は大雪の夜に父が砥ぎたる
遠藤由季『鳥語の文法』2017

〈雪〉が〈父〉のなにかの要素を強めすぎて、通常の父性を通り越してしまうかのようです。

また、〈父〉という属性はそれを担う者を傷つけ蝕むほどきびしい、という感じ方がどこかにあるようです。ひらたく言えば職業病?

■耳を澄ます父


〈雪〉は〈父〉の謎の能力(?)を呼び起こすこともあるようです。
〈父+雪〉の歌で「耳」をとぎ澄ますような歌が2首、目にとまりました。
ひとつはこれ。

まさびしき雪夜や父はおそろしく耳ていねいに洗ひて睡むる
伊藤一彦(出典調査中)

なぜ雪の夜にことさら耳をよく洗うのか。
もしや無音で降る〈雪〉の静寂に〈父〉が聞くべき特別な何かがあるのでしょうか?
(ちらっと「犬笛」を想起してしまった……。)

ヒントになるかもしれないのが次の歌です。

くらぐらと夜に雪ふれば雪の声つかまえており父の補聴器
辻聡之『あしたの孵化』2018

この歌の〈父〉は普通なら聞こえない「雪の声」を捉えています。
補聴器は聴力の衰えた老父を想像させます。
でもこの〈父〉は、通常の聴覚のかわりに、無音領域の神秘的な〈雪〉の言葉を解する能力を得たかのようではありませんか。

〈雪〉は、すでに〈父〉という役を担えなくなった人にも、神秘を供給することができるようです。〈老父〉の衰えは、こういう表現なら哀れっぽくならずに描けます。

〈雪〉は音もなく降るものなので、「耳」や聴覚が詠まれるのでしょう。ちなみに、〈父+雪〉の歌に、目鼻が効く、視覚嗅覚が冴えるという歌は見当たりませんでした。

※ただし、このように何かと交信したり、次項のように何かと戦ったりするのは、「父」の基本イメージで、「雪」以外でも、きっかけがあれば発動します
 用例を集めにくいので、どのぐらいあるかわかりませんが、たとえばこれ。
 窓ぎわに乱丁のページ開かれて銀河へ放つ矢じり研ぐ父 永井陽子『葦牙』
 普通のページではだめで乱丁のページによって銀河と戦えるようになるのか?

■決死の覚悟と〈雪〉の名場面効果 


ところで、赤穂浪士の討ち入り場面に、〈雪〉は不可欠です。
ふりしきる〈雪〉のなかを《悲壮》な覚悟で戦いに赴く人々。
--そういう名場面をテレビで何度も見たような気がします。

二・二六事件も〈雪〉のイメージが切り離せません。テレビで降りしきる〈雪〉の場面を見たような気がします。
(実際の二・二六事件の日、雪は、積もっていただけで、降ってはいなかった、と、どこかで読みました。テレビで見た映像はどうだったろう。……私の頭が映像を編集して、降りしきる雪を追加してしまった可能性があります。)

そして、こういう「雪のなか決死の覚悟で戦いに赴く」という《悲壮感》が、なぜだかものすごく〈父〉に似つかわしいように思えるのです。

■〈父〉の《悲壮》に〈雪〉はつきもの?


「フランダースの犬」とか「マッチ売りの少女」とか、悲しいエンディングには雪がつきもの、とまでは言わないまでも、よくマッチすると思います。
〈雪〉はさまざまな出来事を白く覆い、悲しみや苦しみを鎮め、清く昇華させながらフェイドアウトしてくれる気がします。

それとは別ですが、「父は永遠に悲壮である」というのがあります。
名言辞典にも載る萩原朔太郎の詩(アフォリズム集『絶望の逃走』に収録)です。
この言葉、空の奥からおごそかに降るようないかにも名言というオモムキがあります。

家族を守って戦ったり、仕事などに志を持って取り組んだり、〈父〉はかっこいい戦士で、非業の死を遂げるヒーローの役柄なのか。

内心の声:詩歌の言葉だから、現実世界とのギャップがあってもいいけれど、でも「〈父〉ってそんなに悲壮かなあ。〈父〉ばっかりかっこよくてずるい」と思っちゃう。
母だって、いや父でも母でもない人だってヒーローであり得るのに、なんで〈父〉ばっかり〝いい役〟をとっちゃうのさ、じゃんけんしろよって。

こういういろいろが混ざって、短歌に詠まれる〈父〉には、劇の主人公のような現実離れしたイメージ傾向が生じ、「悲愴な覚悟で戦う父の戦場(舞台)には雪がつきもの」みたいになっていて、それが無意識のまま、なーんとなく了解されているのです。

バラバラに見てもわからないけれど、用例を集めてみればその傾向が感じらる。--詩歌的には、そのぐらい淡い段階が食べごろでしょう。

あくたびの影立ち上がる雪の中父は背中を朱に染めたる
あくたび=芥火 ごみや、ちりを焼く火
江田浩司(出典調査中)

何かを燃やしていた父が火を背にして立ち上がる。少し怖い姿です。
何かを焼き捨てたのか、背を染める「朱」は血の色を想わせ、非常に強い決意をもって立ち上がった感じがします。
また、〈雪〉があることで、それがただの個人的な怒りや欲でなく、何か大義のある決意のようにも思えます。

■〈雪〉は〈父〉というミームを暗示

〈父〉のこうしたイメージは、父となった者たちがを遺伝子のように受け継いでいくことが期待されている、つまり「悲壮な決意で戦う戦士のような父であれ」というミーム※になっていると思います。

ミームは、遺伝子が生物を形成する情報を伝えるように、文化を形成する情報を伝えるもの。模倣子、意伝子と訳される。

〈父〉はいろいろな内容で短歌に詠まれていますが、このミームに軸足を置いて〈父〉を詠む歌では、個別の事情や具体的に何と戦うかといったことはほとんど詠み込まれません。ミームの気配だけでじゅうぶん読ませます。

そして、〈雪〉は〈父〉といっしょに詠み込むだけでミームを召喚してくれる、という便利な言葉です。架空の父を詠もうが現実の父を詠もうが、それとない「悲壮な決意で戦う戦士のような父」への連想脈が歌を支えてくれます。

〈父+雪=ミーム〉は、一般的な「暗黙の了解」※よりももっと淡くて意識されにくい約束事であり、無意識の底でしか了解できないからこそ詩的効果が生じる、ともいえます。
  
指摘すれば多くが納得する程度のことが「暗黙の了解」です。例えば泥棒のイラストは、しばしば唐草模様の風呂敷包みを背負いほっかむりした姿で描かれます。現実にはそんな泥棒はいないけれど、それは泥棒の目印になりますよね、と言えば、たしかにそうだと多くの人は賛成してくれるでしょう。それに対して、〈雪〉が〈〉のミームの目印になる、ということはもっと不確かで淡い約束事だと思います

■老いてしまった〈父〉は


さて、そんな〈父〉が老いてしまったらどうなるのでしょう?

ちちのみの父の眉毛も譬ふれば雪のごとくに古りましにけり
北原白秋『雀の卵』1921

古典の歌では頭の白髪を雪に例えることが常套的でした。この歌はそれを眉にシフトして比喩として活性化しただけのように見えます。近代のこの歌の段階ではまだ〈父+雪=ミーム〉という約束事が成立していなかったようです。

しかし、次の歌は注目すべき点があります。

舗装路の罅の間に解けのこる雪のかなしく父老いにけり
浜名理香(出典調査中)

この「解けのこる雪」は、なぜ「かなしく父老いにけり」に続くのでしょうか?
老いた〈父〉が哀れだから?
そうなんですが、その哀感をなぜ「解けのこる雪」で表すのでしょうか?

この「かなし」、次のように読み解けないでしょうか。

--心身の衰えた老父もかつては雪の名場面を担う戦士だった。
 が、その名残はもうわずか。父の誇りの片鱗は「舗装路の罅の間に解けのこる雪」のようにいじらしく、今にも消えそうである。そんな父をみるのが悲しい。--

「解けのこる雪のかなしく」の部分は、するっと自然に読めるけれども一瞬その軌跡が見えないところがあります。それは、この〈雪〉の名残が〈父〉ミームの名残であるということです。そのことは意識されないまま、でもしっかりとイメージの筋を通すのです。

■太った〈父〉は刺される!?


さて、〈雪〉の野原は〈父〉が名場面で登場する舞台になり得ますが、次の歌は実に興味深いです。

雪ちかき野は劇場のごと昏れつ まづ刺さむ肥りたる父と鷽
塚本邦雄『水銀傳説』1961

この歌は、「〈父〉は雪の舞台で悲壮でかっこいい役柄を務める」ということを前提として、「肥満の父にはそんな役は務まらない」と考えています。
多くの人が無意識のまま受け入れている〈父ミーム〉を暴露し、「かっこ悪い父が刺される」という別の劇にしています。

この歌、価値は内容だけじゃないと思います。
これは、……カツ入れじゃないかしら。
詩的な食べごろを無意識のままにして温存してみんなで汁をすすっているようなこの状況に対してカツをいれるかのようで、すごく爽快じゃないですか。

もっとよく読んでみよう……。

①「肥りたる父」をなぜ刺すのか

「雪ちかき野」は「悲壮な決意で戦う戦士」の登場を待つ舞台です。

 ⇒そういう役が務まる〈父〉は、引き締まった身体であるべきである。
  精神的にも高潔さが求められ、私腹を肥やしたような体型の父は、雪がふる前に排除する。

この過激さは、太った父への美意識的な嫌悪、には釣り合わない。緩んでしまったミームに、そんなミームにあやかる人たちに、カツ入れしているんだと私には思えます。

②「鷽」をなぜ刺すのか

「鷽」については、「鷽替え」(災厄・凶事などを嘘としして吉に変える)という神事を思わせますが、考えようによって「鷽替え」は、対処すべきものと向き合わず、戦うべきものと戦わない、ごまかしではないでしょうか。
雪野の劇場にはそんな姑息な名の鳥もふさわしくありません。

※鳥の名前にかこつける詠み方は、「名にし負はばいざ言問はむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと」というような古歌の論法を掠めていて、過激な言葉遣いをしつつちゃんと伝統も意識している、というこころにくい表現だと思います。

これは手始めであり、「肥りたる父と鷽」を「まづ」刺して、他にも排除さるべきものを順々にやっつけていくんだぞ、という革命の始まりのようなノリも、味わい深い表現です。

■〈雪〉がなかったら


前項の歌で「雪ちかき野」が〈父〉の舞台の出番が近いことを意味していたわけですが、それならば、もし〈雪〉が来なかったら、〈父〉の出番もなくなってしまいますね。

父よりも疾く死にたけれ雪あらぬ東京の嘘のやうなあたたかさ
辰巳泰子(出典調査中)

作者がどこまで意識したかはわかりませんが、〈雪〉がなくて引き締まらずに温かい東京では、かっこよく戦士としての〈父〉の出番がない。

「父よりも疾く死にたい」というのは、そういう失望をしたくないからなのでしょうか?

■未完の〈父〉


〈父〉の悲愴にもいろいろありますが、そんなバリエーションのひとつに《夭折》《未完》というものがあります。

三匹の子豚に實は夭折の父あり家を雪もて建てき
小池純代(出典調査中)

「家を雪もて建て」たという情報からうかがえるのは、その〈父〉は雪のように純粋な理想に殉じて早逝したか、あるいはその理想を実践することなく病に倒れるなどしてしまったか、ということです。

いずれにせよ〈父〉としては未完であるわけですが、しかし、汚れたり醜態をさらしたりしなかったぶん、救いがあるような感じもします。

※三匹の子豚はそれぞれ藁の家、木の家、煉瓦の家を建てた。煉瓦の家の子豚以外は狼に食べられてしまう。(現在は、藁と木の家の子豚が煉瓦の家に逃げ込んで助かる話になっているらしい。)

未完の〈父〉をもう一首。

雪の夜を迷ひ来たれる軍服のうら若き父はわれを知らずも
水原紫苑『光儀(すがた)』2015

雪の夜に、自分が生まれるまえの若い〈父〉を幻視しているようです。これは父親になることを知らぬまま戦死してしまった青年の姿なのでしょうか。
迷い込んできた霊のようなあえかでこわれやすい感じ。魔法でどうかされているワケアリ王子様みたいでもあって、ものすごくステキだと思います。

この青年は〈父〉としてスタートできず、〈父〉のイメージである〈戦士〉としても《未完》であるのでしょう。この《未完》は美意識を刺激します。

※なお、この歌の作者は実際に軍人の父はを持つようですが、私は原則として、「詩歌は言葉の世界のできごと」として捉えているので、鑑賞も言葉の世界で完結させ、作者の個人的事実等と安易に結び付けない主義です。


〈父+雪〉をすっかり解明したわけではありませんが、今まで意識しなかったところまで少しは踏み込めた気がします。
今日はこれ以上考えてももう何も思いつかないと思うので、〈母+雪〉へ進みます。

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父母と雪   その0 ピックアップ
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満62:父母と雪 その4

Ⅳ  〈母+雪〉の特徴


■〈母〉と〈ふるさと〉


前章では、〈父〉と〈雪〉との特別な結びつきを考察しました。
〈母〉と〈雪〉にはそうした〝特別〟はないのでしょうか。


集めてみたところ、〈母+雪〉の歌にはしばしば〈ふるさと〉が詠み込まれる、という傾向が見られます。

いったん〈雪〉を離れて、〈父+ふるさと〉と〈母+ふるさと〉の歌をざっとカウントしてみました。

 「父」+「故郷」(orふるさと) 18首
 「母」+「故郷」(orふるさと) 32首

※データベース(約115,500首収録)を「父」「母」「故郷」「ふるさと」の4つのテキストで検索してみました。
別表記や別表現(例えばパパ・かあさん・古里など)の歌はカウントしていません。

〈父+ふるさと〉の歌は、あるけれども少なめで、〈母+ふるさと〉のほうが倍ぐらい多いわけです。

現実には母だけでなく父も故郷に住んでいますから、この偏りはイメージの世界に何らかのバイアスがあることを示しているのでしょう。

〈母〉は、現実を超越し、いのちのふるさとへさかのぼる扉のような存在だからか、などと考えてみましたが、推測でしかありません。
わからないけれど先へ進みます。


■〈ふるさと〉はたいてい北国


ところで、人の出身地はあちこちですから、そこかしこが誰かの故郷でありえるわけです。

ところが、〈ふるさと〉の一般的イメージは、都市ではなくて田舎であり、唱歌「ふるさと」のような情景です。

加えて、一体なぜなのか、現代の短歌に詠まれる※〈ふるさと〉はたいてい北国です。

何か根源的な理由があるのか、それとも、北国・雪国出身の歌人がすぐれた〈ふるさと〉の歌を詠み、その結果としてそういうイメージが定着したのでしょうか。
危篤の母のために故郷にかけつける有名な連作「死にたまふ母」を詠んだ斎藤茂吉は山形県出身です。

いろいろなことのなりゆきの結果として、〈ふるさと〉といえばなんとなく北国になったのでしょうか。しばしば〈雪〉が詠み込まれています。

※古典和歌の〈ふるさと〉には地域は関係なかったようです。近代の作者にその萌芽が見られます。

※短歌だけでなく、昔の歌謡曲「北帰行」にも「北へ帰る旅人」という言葉が出てきます。いままで詩歌系の文脈では「人の故郷は北」が定番であり、それに対して、「南へ帰る」はツバメなどの渡り鳥の話みたいな感じでした。だから逆に、詩歌系文脈の「人が南の故郷に帰る」は幽かに新鮮だし、楽曲のタイトルで見たことがあるので、これからだんだん増えるのかもしれません。

[参考]北国・雪国出身の歌人の〈ふるさと〉

汽車の窓/はるかに北にふるさとの山見え来れば/襟を正すも
石川啄木『一握の砂』1910

吸ひさしの煙草で北を指すときの北暗ければ望郷ならず
寺山修司(青森県)『田園に死す』1965
 
空ひびき土ひびきして吹雪する寂しき国ぞわが生れぐに
ルビ:吹雪【ふぶき】/生【うま】
宮柊二(新潟県)『藤棚の下の小室』1972
 


■〈母+雪+ふるさと〉は定番?


理由はどうあれ〈母+雪+ふるさと〉という取り合わせの歌は、なんと6首もありました。
今回見つけた〈母+雪〉の歌は38首ですので、そのうちの15%が〈母+雪+ふるさと〉に該当したのです。
この組み合わせ、定番というか、言葉の定食セットみたいな感じです。

その6首は以下の通り。
「ふるさと」という語を使っていない歌も、内容で判断してカウントしました。

吾妻やまに雪かがやけばみちのくの我が母の國に汽車入りにけり
ルビ:吾妻【あづま】
斎藤茂吉『赤光』1913(「死にたまふ母」)

北ぐにの母は吹雪を運命とし風呂敷負いて子のわれを曳く
渡辺於兎男(出典調査中)

ふるさとの最上川面に雪ふるとテレビの前に釘づけの母
時田則雄『北方論』1982

母の住む国から降ってくる雪のような淋しさ 東京にいる
俵万智『サラダ記念日』1987

オルレアンに春の吹雪のまんじともえ不意にはげしく日本恋しわが母恋し
加藤克巳『春は近きか』2002
※  まんじともえ(卍巴)=卍や巴の模様のように、互いに追い合って入り乱れること。

ここはまだ母のふるさと玄関の雪は掻いても掻いても積もる
本田瑞穂『すばらしい日々』2004


故郷ではない場所に降る〈雪〉はふるさとの便りみたいなもの。
それどころか、〈ふるさと〉のカケラみたいに捉えている歌もあります。

〈雪〉は空から降るものなので、〈雪+ふるさと〉だったら、現実の地上のふるさとだけでなく、空にある魂のふるさとから降ってくる、という着想も射程に入ってくるはずですが、〈母〉が詠み込まれると、地上の故郷であって空ではない感じになります。


なお、〈父+雪+ふるさと〉はたった1首しか見つかりませんでした。レアですね。

でも、定番である〈母+雪+ふるさと〉の歌と読みくらべてみて、ちっとも違和感がなくて、なぜレアなのかわかりません。

ふるさとに雪は降るとぞ死にそうで死ねない父を見舞いにゆかむ
大島史洋『ふくろう』2015


この話題もそろそろ終わりにして、次に進みます。テーマは父母の死です。


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父母と雪   その0 ピックアップ
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満62:父母と雪 その2



Ⅱ 〈父〉or〈母〉とふたり(子の立場から)


〈雪〉のイメージといえば《清浄》、そして音もなく降るので《静寂》でしょうか。
さらに、降り込めて《遮断》するという表現効果があると思います。

■〈父or母+保護される子+雪〉


まずは、幼いときに〈雪〉のなかで親に保護されていた記憶を〈子〉の立場から描く歌。

亡き父のマントの裾にかくまはれ歩みきいつの雪の夜ならむ
大西民子『花溢れゐき』1971

頭にかかる雪を払いて顔抱きし母の掌ぬくし雪道のよる
渡辺於兎男(出典調査中)

《清浄》な〈雪〉のなか、〈父〉か〈母〉と二人だけで、寒さなどから守られ、たのもしさ、やさしさを一身に感じています。
日常を離れ、雪で他を《隔絶》した特別な状況、その至福……。

■〈父or母+やや大きい子+雪〉


ただし、同じく雪のなかでも、子どもがやや大きくなっている場合は、雰囲気が違ってきます。

〈父+やや大きい子ども+雪〉では次の歌を見つけました。

父とゆく朝の雪原ときとして双翼の翳われらを摂む
ルビ:摂【つつ】
高島裕(出典調査中)

〈父〉には《戦う》というイメージもあると思いますが、〈父〉に同行する子は、その戦いの空気をわかちあえることがうれしく、ほこらしく感じているようです。

しかし、こういうことはめったになく、幼児期のあとは、〈父〉は近寄りがたい存在であるというイメージのほうが優勢です。

爾後父は雪嶺の雪つひにして語りあふべき時を失ふ
春日井建『青葦』1984

なお、〈母+やや大きい子ども+雪〉に該当する歌は、私のデータベースにはありませんでした。

■〈父or母+成人した子+雪〉


降る音が聞こえるやうな雪の夜愛しき人の名を母に告ぐ
本田一弘『銀の鶴』2000

こうしたことを母に告げるのは、しずかな晩、二人だけになったときがふさわしいでしょう。
ですので、このような告白は必ずしも雪の夜でなくてもいいかもしれません。

春の夜のともしび消してねむるときひとりの名をば母に告げたり
 土岐善麿『遠隣集』1951
という歌がよく知られています。

ただ、家族の歴史に新しい変化をもたらすことを〈母〉に告白する、ということは、家族・血縁・ルーツなどの連想脈を少し刺激しますし、〈雪〉には〈ふるさと〉のイメージもあります(後述)。
ですので、内容はよく似ていますが、「降る音が……(本田)」はやや厳粛な感じであり、ほのぼのとした「春の夜の……(土岐)」とは異なる味わいになっています。

■〈老父or老母+成人した子+雪〉


では、〈父〉〈母〉が老い、子どもが成人したらどうでしょう。

舗装路の罅の間に解けのこる雪のかなしく父老いにけり
浜名理香(出典調査中)

雪降るを母に告げつつ眼科医の長き廊下を手をつなぎ行く
宇佐美ゆくえ『夷隅川(いすみかわ)』2015

現実世界にはいろいろな老い方がありますが、短歌のなかではどうでしょう。

〈父〉は、短歌の中ではことさら《威厳》《強さ》などを期待され、詩的役柄としてプライドが高く、そのぶん、衰えることの哀れさが強いように思えます。

一方、短歌のなかの〈母〉は、あまり抵抗なくしぜんに保護される側になり得るようです。
(宇佐美の「雪降るを……」は解釈によって老母とは限らないのですが、子に保護されることに抵抗感は描かれていません。)

さらに、〈父〉の《威厳》《強さ》等々のイメージは強い美意識を伴っているようです。老父の衰えは、その美意識とのギャップという哀れも加わります。

老醜をさらすよりけがれのない夭折のほうがまし、という極端な美意識の潜む歌がたまにあります。

■〈亡父or亡母+成人した子+雪〉


さらに、二人でいっしょにいるわけではありませんが、心のありようとして、亡父亡母と成人した子が寄り添うような関係もあります。

わが父よ汝が子はかくも疲れたり雪降るむこう山鳩の鳴く
岡部桂一郎『一点鐘』

この父は亡くなっているとは書いてありません。でも、昔から鳥は死者の国と行き来できる存在として描かれてきましたので、「山鳩の鳴く」は死者の国をそれとなく暗示していると思います。

母を知らぬわれに母無き五十年湖に降る雪ふりながら消ゆ
ルビ:湖【うみ】
永田和宏『百万遍界隈』2005

この母はいっしょにいるのでなく、逆にずっと不在ですが、関連ありと思うのでここに置きます。

■〈父or母+子+雪〉(親の立場から)


子の口腔にウエハス入れあは雪は父の黒き帽子うすらよごしぬ
ルビ:口腔【くち】
小池光『バルサの翼』1978

子にとっては、優しくて頼りになる親に保護される幸福な時間。親の立場でもそれは幸福な時間であるはずです。
けがれのない幼児にとって、ウエハスと同じようにやさしい淡雪。天使のような子のそばにいて〈父〉もその清らかさにあやかる幸福。

でも、その淡雪は〈父〉の黒い帽子を「うすらよごし」てしまう。その微妙な屈折が読みどころだと思います。
大人である〈父〉は少しけがれていて、天からの清浄な糧を子のように受け止められない。

そのほかにも、〈父+雪〉には無意識下で特別な暗示が少しはたらいて、複雑な味わいを醸しているようにも感じられます。
次章ではそこに踏み込めるかもしれません。

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父母と雪   その0 ピックアップ
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2021年6月2日水曜日

神社の切り株

近所の小さな稲荷神社。
大きな樹があったのにいつのまにか斬られていた。
敷地のわりに大きすぎて近所に迷惑だったのか。
それとも老木で倒れる危険でもあったのか。

神社は神聖な場所とされている。そこの古木を切ったのに、注連縄でなく工事のコーンかい、と想ってしまう。

植物が声をたてないでいてくれるので、
あるいは人間には聞こえない声はたてているのかもしれないが、
とにかく静かで人間は助かっている。

この巨木が斬られるときにギャーっとすごい叫び声をあげたら?
近隣の神社の樹木たちが共鳴して、狼みたいに叫び交わしたら?
そういうものなら安易に切り倒せはしなかっただろう。
(そういうものだとしたら、人間は樹木用の麻酔を発明して、「安楽死」させるだろうな。)


人間が対象物に抱くイメージというのものの多くは、人間の身勝手な思いでしかない。
そういう意味で〝詩情〟は身勝手の最たるものだ。

詩歌は、人間が、芸術表現だ、高尚なんだぞとふりかぶって対象物やそれを表す言葉を使いがちである。
もしも対象物が言い返せるものなら、
「なんだよ、ひでえ比喩につかいやがって、何が芸術だ。おまえが気取ってイメージ操作を楽しんだ娯楽じゃんか」
とか言わないだろうか。

幸いにも、多くの事象は人間に何を言われているかなど気にしていないし、気にしたとしても言い返さないが。

私が言いたいのは内容のことではない。切実かどうか、真面目かどうか、ではない。
対象物やそれを表す言葉に対して、そもそも歌に詠んで引き合いに出すのが人間の当然の権利なのだろうか。
そういう究極の謙虚さの有無だ。
作品にそういうことは書いていないけれども、その種の〝非謙虚〟はなんとなくわかることがある。

注連縄を歌の数だけどこかへ奉納しろ、とは言わないが、食事の前後に「いただきます」「ごちそうさま」と言う程度の感謝(その食物が自分の糧になるまでのもろもろ=天地のめぐみや関係者などのすべてに感謝)に似たような、小さな謝意ぐらいあってしかるべきではないか。

以下、神社の切り株とは関係ないが、切り株を詠む歌句を集めてみた。

本日の感性にまかせ(つまり線引は説明できない)、対象にたいして礼を失していない、となんとなく感じられた好印象のものだけを置いてみた。

※後日切り株は撤去されました。下の方に写真があります。


短歌

あッあッとかすかなるこゑ切株の銀河にのまれゆける蜻蛉の
ルビ:蜻蛉(あきつ)
渡辺松男『きなげつの魚』

神話ひとつ倒れて青き空のもとさしあたりわれは切株に座す
山田富士郎

切り株のはじっこあたりから生えてしまった女学生をひきぬく
笹井宏之『てんとろり』2011

切り株につまづきたればくらがりに無数の耳のごとき木の葉ら
大西民子『無数の耳』

一人死なば一つ空席われら得む ひしめきて菊の切株癒ゆる
塚本邦雄『日本人靈歌』1958

池の底に深く沈める切り株の浮かばぬはうがよいと思へり
楠誓英『青昏抄』2014

春山の切株に來てやすみゐるこころに灰色の獨樂まはり出す
松本良三『飛行毛氈』 1935

俳句


切株に 人語は遠くなりにけり
富澤赤黄男

切株はじいんじいんと ひびくなり
富澤赤黄男

切株やあるくぎんなんぎんのよる
加藤郁乎



川柳


切株に鴉を描きらんらんたり
定金冬二『無双』

台風はぼくの切り株だったのか
我妻俊樹 作者ブログ


2021年6月19日追記

■ついに切り株が撤去されました。


■在りし日の樹、および、その他の神社の写真





■さらについでですが、近所の木




2021年12月追記 ついにこの木も切り倒されました。



2021年5月25日火曜日

ミニ51 股間の詩的用途

「股間」という語を、言い間違いネタで見かけた。

「『沽券にかかわる』と言うべきところを『股間に……』と言っちゃった。」
「いや俺なんか「眉間にシワを寄せる」を『股間に……』と言っちゃった。」

みたいな話だ。 

「股間」なんて短歌にめったに詠まないだろう、と思った。
でも念の為に調べてみたら、多くはないけどそこそこ詠まれていた。

けっこう詩的用途があるみたい。笑
10首ピックアップするので、読んでみてください。


言葉より大事なものがあると云う君は股間を隠して生きる
望月裕二郎『あそこ』2013

ジェット機が雲生むまひる愛のかわりに潜水で股間をくぐれ
穂村弘『ドライ ドライ アイス』1992

夏の夜の壁に凭れた微睡みの股間に鳴っているオルゴール
穂村弘(出典調査中) 

枇杷の汁股間にしたたれるものをわれのみは老いざらむ老いざらむ
塚本邦雄(出典調査中)

旅に出る僕の股間は透き通り時の隘路に放火する犬
江田浩司(出典調査中)

係累が鋏を立てて踊りくる僕の股間に光る一筋
江田浩司(出典調査中)

街にもや、部屋という部屋包んだら妻が股間を拭く音がする
久真八志 「かばん」2018・6

股間にし火鉢はさみて暖をとるかの日釧路の石川一
佐藤通雅『強霜(こはじも)』2011

うたた寝ののちおそき湯に居たりけり股間に遊ぶかぎりなき黒
岡井隆『蒼穹の蜜』1990


股間には疼きを放つものありて花を揉むように紙をもんでいる
ルビ:疼(うず)
岡井隆『天河庭園集』1978


以下、俳句と川柳もすこしだけ。

俳句

老いぬれば股間も宙や秋の暮
永田耕衣『葱室』

冬蝶を股間に物を思へる人
永田耕衣『驢鳴集』

たまさかに銀はいななく股間来る
野間幸恵『ステンレス戦車』

川柳

明け方の股間を通る不審船
丸山進『アルバトロス』

王様は股間に在って デモ終る
石田柊馬(出典調査中)


お金を詠む10 お金(金額なし)

お金


生活がやってきて道の犬猫が差しだす小さく使えないお金
フラワーしげる『ビットとデシベル』2015

たましひがちつとも売れやしない日にあなたがくれたお金を遣ふ
光森裕樹『鈴を産むひばり』2010

夜のひきあけと思うころおい梟がもっとお金が欲しいと鳴けり
石田比呂志『滴滴』1986

おはじきがお金に変わり、ながいながいあそびのはての生のはじまり
佐藤弓生『モーヴ色のあめふる』2015

ジャケットは観音びらき風の中 おかねをもたせてあげたいのです
雪舟えま『たんぽるぽる』2011

お客さんだけどお金ははらってない気分で秋風に当たってる
永井祐『広い世界と2や8や7』2020

たましいを少し削ってなめてみるお金の味に少し似てきた
鳥居萌「本郷短歌」第3号 2014

ちり紙にくるんだお金てのひらにぬくめて帰るふゆのゆふやみ
東直子『青卵』2001

川を見ながらラムネを飲んだ睫毛まで白くなりたる祖母のお金で
東直子「歌壇」2012・11

大丈夫花屋に並ぶいろいろの花ならみんなお金で買える
生田亜々子「詩客」2012-09-14

人のために命をかける準備するぼくはスイカにお金を入れて
永井祐『短歌ヴァーサス』11号 2007

海だというものそれからお金というもの これからがレベルEだ
瀬戸夏子『かわいい海とかわいくない海 end,』2016

水に火がぶどうのように実ってもテレビの中ではお金も買える
瀬戸夏子『そのなかに心臓をつくって住みなさい』2012

この先はお金の話しかないと気づいて口を急いでなめる
虫武一俊『羽虫群』2016

アルバイトの感想聞けばまだお金もらってないからわからぬと言う
俵万智『かぜのてのひら』1991

日に一度お金のことを考える飼い犬の目を見つめるように
木村友 2017・11東京文フリフリーペーパー第63回角川短歌賞予選通過作より

一年はレシートの中早く過ぐ、お金を使っただけの一年
花山周子『屋上の人屋上の鳥』2007