ここからしばらく、〈母〉を離れ、〈父+雪〉の歌に密着して考察します。
■《威厳》《畏怖》など
詩歌のなかでも、また一般的にも、《威厳》は〈父〉のイメージのひとつです。
(現実の個々の父親は人それぞれに個性があるんですけど。)
そして、《威厳》は〈雪〉とも関係があるようです。
遠山にきれぎれの虹つなぎつつわが父の座に雪は降りつむ
辺見じゅん(出典調査中)
《威厳》と〈雪〉のつながりというと、このような雄大な雪山の姿が少し関わっていそうです。
が、次のような歌をみると、〈雪〉の役割は、雪山の雄大さだけでは説明しきれないと感じます。
なんだかわからないけれど。
偉大だった父たちの死よ掌の上の硝子の球の中に雪降る
ルビ:掌【て】
佐々木六戈『佐々木六戈集』2004
父よ男は雪より凛く待つべしと教へてくれてゐてありがたう
ルビ:凛【さむ】
小野興二郎『天の辛夷』1979
長身の父在りしかな地の雪に尿もて巨き花文字ゑがき
塚本邦雄『緑色研究』1965
おしっこで花文字が書けるほどの長身ってすごい。
個人的には、威厳ある父を詠む歌群の中でこの歌がいちばん偉そう。笑
また、《威厳》を通り越して、〈父〉への《畏怖》のような感覚をあらわす歌もあります。そういう歌では、なぜか〈雪〉が〈父〉を怖いものに変えてしまうらしいのです。
死ぬまへに孔雀を食はむと言ひ出でし大雪の夜の父を怖るる
小池光『廃駅』1982
鋭角に葱切りゆける包丁は大雪の夜に父が砥ぎたる
遠藤由季『鳥語の文法』2017
〈雪〉が〈父〉のなにかの要素を強めすぎて、通常の父性を通り越してしまうかのようです。
また、〈父〉という属性はそれを担う者を傷つけ蝕むほどきびしい、という感じ方がどこかにあるようです。ひらたく言えば職業病?
■耳を澄ます父
〈雪〉は〈父〉の謎の能力(?)を呼び起こすこともあるようです。
〈父+雪〉の歌で「耳」をとぎ澄ますような歌が2首、目にとまりました。
ひとつはこれ。
まさびしき雪夜や父はおそろしく耳ていねいに洗ひて睡むる
伊藤一彦(出典調査中)
なぜ雪の夜にことさら耳をよく洗うのか。
もしや無音で降る〈雪〉の静寂に〈父〉が聞くべき特別な何かがあるのでしょうか?
(ちらっと「犬笛」を想起してしまった……。)
ヒントになるかもしれないのが次の歌です。
くらぐらと夜に雪ふれば雪の声つかまえており父の補聴器
辻聡之『あしたの孵化』2018
この歌の〈父〉は普通なら聞こえない「雪の声」を捉えています。
補聴器は聴力の衰えた老父を想像させます。
でもこの〈父〉は、通常の聴覚のかわりに、無音領域の神秘的な〈雪〉の言葉を解する能力を得たかのようではありませんか。
〈雪〉は、すでに〈父〉という役を担えなくなった人にも、神秘を供給することができるようです。〈老父〉の衰えは、こういう表現なら哀れっぽくならずに描けます。
〈雪〉は音もなく降るものなので、「耳」や聴覚が詠まれるのでしょう。ちなみに、〈父+雪〉の歌に、目鼻が効く、視覚嗅覚が冴えるという歌は見当たりませんでした。
※ただし、このように何かと交信したり、次項のように何かと戦ったりするのは、「父」の基本イメージで、「雪」以外でも、きっかけがあれば発動します。
用例を集めにくいので、どのぐらいあるかわかりませんが、たとえばこれ。
窓ぎわに乱丁のページ開かれて銀河へ放つ矢じり研ぐ父 永井陽子『葦牙』
普通のページではだめで乱丁のページによって銀河と戦えるようになるのか?
■決死の覚悟と〈雪〉の名場面効果
ところで、赤穂浪士の討ち入り場面に、〈雪〉は不可欠です。
ふりしきる〈雪〉のなかを《悲壮》な覚悟で戦いに赴く人々。
--そういう名場面をテレビで何度も見たような気がします。
二・二六事件も〈雪〉のイメージが切り離せません。テレビで降りしきる〈雪〉の場面を見たような気がします。
(実際の二・二六事件の日、雪は、積もっていただけで、降ってはいなかった、と、どこかで読みました。テレビで見た映像はどうだったろう。……私の頭が映像を編集して、降りしきる雪を追加してしまった可能性があります。)
そして、こういう「雪のなか決死の覚悟で戦いに赴く」という《悲壮感》が、なぜだかものすごく〈父〉に似つかわしいように思えるのです。
■〈父〉の《悲壮》に〈雪〉はつきもの?
「フランダースの犬」とか「マッチ売りの少女」とか、悲しいエンディングには雪がつきもの、とまでは言わないまでも、よくマッチすると思います。
〈雪〉はさまざまな出来事を白く覆い、悲しみや苦しみを鎮め、清く昇華させながらフェイドアウトしてくれる気がします。
それとは別ですが、「父は永遠に悲壮である」というのがあります。
名言辞典にも載る萩原朔太郎の詩(アフォリズム集『絶望の逃走』に収録)です。
この言葉、空の奥からおごそかに降るようないかにも名言というオモムキがあります。
家族を守って戦ったり、仕事などに志を持って取り組んだり、〈父〉はかっこいい戦士で、非業の死を遂げるヒーローの役柄なのか。
内心の声:詩歌の言葉だから、現実世界とのギャップがあってもいいけれど、でも「〈父〉ってそんなに悲壮かなあ。〈父〉ばっかりかっこよくてずるい」と思っちゃう。
母だって、いや父でも母でもない人だってヒーローであり得るのに、なんで〈父〉ばっかり〝いい役〟をとっちゃうのさ、じゃんけんしろよって。
こういういろいろが混ざって、短歌に詠まれる〈父〉には、劇の主人公のような現実離れしたイメージ傾向が生じ、「悲愴な覚悟で戦う父の戦場(舞台)には雪がつきもの」みたいになっていて、それが無意識のまま、なーんとなく了解されているのです。
バラバラに見てもわからないけれど、用例を集めてみればその傾向が感じらる。--詩歌的には、そのぐらい淡い段階が食べごろでしょう。
あくたびの影立ち上がる雪の中父は背中を朱に染めたる
あくたび=芥火 ごみや、ちりを焼く火
江田浩司(出典調査中)
何かを燃やしていた父が火を背にして立ち上がる。少し怖い姿です。
何かを焼き捨てたのか、背を染める「朱」は血の色を想わせ、非常に強い決意をもって立ち上がった感じがします。
また、〈雪〉があることで、それがただの個人的な怒りや欲でなく、何か大義のある決意のようにも思えます。
〈父〉のこうしたイメージは、父となった者たちがを遺伝子のように受け継いでいくことが期待されている、つまり「悲壮な決意で戦う戦士のような父であれ」というミーム※になっていると思います。
※ミームは、遺伝子が生物を形成する情報を伝えるように、文化を形成する情報を伝えるもの。模倣子、意伝子と訳される。
〈父〉はいろいろな内容で短歌に詠まれていますが、このミームに軸足を置いて〈父〉を詠む歌では、個別の事情や具体的に何と戦うかといったことはほとんど詠み込まれません。ミームの気配だけでじゅうぶん読ませます。
そして、〈雪〉は〈父〉といっしょに詠み込むだけでミームを召喚してくれる、という便利な言葉です。架空の父を詠もうが現実の父を詠もうが、それとない「悲壮な決意で戦う戦士のような父」への連想脈が歌を支えてくれます。
〈父+雪=ミーム〉は、一般的な「暗黙の了解」※よりももっと淡くて意識されにくい約束事であり、無意識の底でしか了解できないからこそ詩的効果が生じる、ともいえます。
※指摘すれば多くが納得する程度のことが「暗黙の了解」です。例えば泥棒のイラストは、しばしば唐草模様の風呂敷包みを背負いほっかむりした姿で描かれます。現実にはそんな泥棒はいないけれど、それは泥棒の目印になりますよね、と言えば、たしかにそうだと多くの人は賛成してくれるでしょう。それに対して、〈雪〉が〈父〉のミームの目印になる、ということはもっと不確かで淡い約束事だと思います。
■老いてしまった〈父〉は
さて、そんな〈父〉が老いてしまったらどうなるのでしょう?
ちちのみの父の眉毛も譬ふれば雪のごとくに古りましにけり
北原白秋『雀の卵』1921
古典の歌では頭の白髪を雪に例えることが常套的でした。この歌はそれを眉にシフトして比喩として活性化しただけのように見えます。近代のこの歌の段階ではまだ〈父+雪=ミーム〉という約束事が成立していなかったようです。
しかし、次の歌は注目すべき点があります。
舗装路の罅の間に解けのこる雪のかなしく父老いにけり
浜名理香(出典調査中)
この「解けのこる雪」は、なぜ「かなしく父老いにけり」に続くのでしょうか?
老いた〈父〉が哀れだから?
そうなんですが、その哀感をなぜ「解けのこる雪」で表すのでしょうか?
この「かなし」、次のように読み解けないでしょうか。
--心身の衰えた老父もかつては雪の名場面を担う戦士だった。
が、その名残はもうわずか。父の誇りの片鱗は「舗装路の罅の間に解けのこる雪」のようにいじらしく、今にも消えそうである。そんな父をみるのが悲しい。--
「解けのこる雪のかなしく」の部分は、するっと自然に読めるけれども一瞬その軌跡が見えないところがあります。それは、この〈雪〉の名残が〈父〉ミームの名残であるということです。そのことは意識されないまま、でもしっかりとイメージの筋を通すのです。
■太った〈父〉は刺される!?
さて、〈雪〉の野原は〈父〉が名場面で登場する舞台になり得ますが、次の歌は実に興味深いです。
雪ちかき野は劇場のごと昏れつ まづ刺さむ肥りたる父と鷽
塚本邦雄『水銀傳説』1961
この歌は、「〈父〉は雪の舞台で悲壮でかっこいい役柄を務める」ということを前提として、「肥満の父にはそんな役は務まらない」と考えています。
多くの人が無意識のまま受け入れている〈父ミーム〉を暴露し、「かっこ悪い父が刺される」という別の劇にしています。
この歌、価値は内容だけじゃないと思います。
これは、……カツ入れじゃないかしら。
詩的な食べごろを無意識のままにして温存してみんなで汁をすすっているようなこの状況に対してカツをいれるかのようで、すごく爽快じゃないですか。
もっとよく読んでみよう……。
①「肥りたる父」をなぜ刺すのか
「雪ちかき野」は「悲壮な決意で戦う戦士」の登場を待つ舞台です。
⇒そういう役が務まる〈父〉は、引き締まった身体であるべきである。
精神的にも高潔さが求められ、私腹を肥やしたような体型の父は、雪がふる前に排除する。
この過激さは、太った父への美意識的な嫌悪、には釣り合わない。緩んでしまったミームに、そんなミームにあやかる人たちに、カツ入れしているんだと私には思えます。
②「鷽」をなぜ刺すのか
「鷽」については、「鷽替え」(災厄・凶事などを嘘としして吉に変える)という神事を思わせますが、考えようによって「鷽替え」は、対処すべきものと向き合わず、戦うべきものと戦わない、ごまかしではないでしょうか。
雪野の劇場にはそんな姑息な名の鳥もふさわしくありません。
※鳥の名前にかこつける詠み方は、「名にし負はばいざ言問はむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと」というような古歌の論法を掠めていて、過激な言葉遣いをしつつちゃんと伝統も意識している、というこころにくい表現だと思います。
これは手始めであり、「肥りたる父と鷽」を「まづ」刺して、他にも排除さるべきものを順々にやっつけていくんだぞ、という革命の始まりのようなノリも、味わい深い表現です。
■〈雪〉がなかったら
前項の歌で「雪ちかき野」が〈父〉の舞台の出番が近いことを意味していたわけですが、それならば、もし〈雪〉が来なかったら、〈父〉の出番もなくなってしまいますね。
父よりも疾く死にたけれ雪あらぬ東京の嘘のやうなあたたかさ
辰巳泰子(出典調査中)
作者がどこまで意識したかはわかりませんが、〈雪〉がなくて引き締まらずに温かい東京では、かっこよく戦士としての〈父〉の出番がない。
「父よりも疾く死にたい」というのは、そういう失望をしたくないからなのでしょうか?
■未完の〈父〉
〈父〉の悲愴にもいろいろありますが、そんなバリエーションのひとつに《夭折》《未完》というものがあります。
三匹の子豚に實は夭折の父あり家を雪もて建てき
小池純代(出典調査中)
「家を雪もて建て」たという情報からうかがえるのは、その〈父〉は雪のように純粋な理想に殉じて早逝したか、あるいはその理想を実践することなく病に倒れるなどしてしまったか、ということです。
いずれにせよ〈父〉としては未完であるわけですが、しかし、汚れたり醜態をさらしたりしなかったぶん、救いがあるような感じもします。
※三匹の子豚はそれぞれ藁の家、木の家、煉瓦の家を建てた。煉瓦の家の子豚以外は狼に食べられてしまう。(現在は、藁と木の家の子豚が煉瓦の家に逃げ込んで助かる話になっているらしい。)
未完の〈父〉をもう一首。
雪の夜を迷ひ来たれる軍服のうら若き父はわれを知らずも
水原紫苑『光儀(すがた)』2015
雪の夜に、自分が生まれるまえの若い〈父〉を幻視しているようです。これは父親になることを知らぬまま戦死してしまった青年の姿なのでしょうか。
迷い込んできた霊のようなあえかでこわれやすい感じ。魔法でどうかされているワケアリ王子様みたいでもあって、ものすごくステキだと思います。
この青年は〈父〉としてスタートできず、〈父〉のイメージである〈戦士〉としても《未完》であるのでしょう。この《未完》は美意識を刺激します。
※なお、この歌の作者は実際に軍人の父はを持つようですが、私は原則として、「詩歌は言葉の世界のできごと」として捉えているので、鑑賞も言葉の世界で完結させ、作者の個人的事実等と安易に結び付けない主義です。
〈父+雪〉をすっかり解明したわけではありませんが、今まで意識しなかったところまで少しは踏み込めた気がします。
今日はこれ以上考えてももう何も思いつかないと思うので、〈母+雪〉へ進みます。
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