2021年7月29日木曜日

ミニ53 ハンカチ

 

「ハンカチ」を詠み込んだ歌を探してみました。
本日の短歌全データ 115,733首
そのなかに「ハンカチ」「ハンケチ」という文字列を含む歌は59首ありました。
そのなかから少しピックアップします。

君の落としたハンカチを君に手渡してぼくはもとの背景にもどった
斉藤斎藤『渡辺のわたし』2004

地球儀に絹のハンカチかけしごと海原おおう秋のたか雲
松森邦昭『脳の海』2021

ハンカチーフ白く握りて坐りいる妊婦の腹のいまわしきかな
阿木津英『天の鴉片』1983

父母の涙ぬぐひしハンケチを顔にあてやり棺にをさむ
木下利玄『銀』1914

ハンカチを膝にのせればましかくに暑い杭州体温の町
俵万智サラダ記念日』1987

遠くまで今日よく晴れてマジシャンのやうに大きなハンカチをもつ
小島ゆかり憂春』2005

母でなく妻でもなくて今泣けば大漁旗がハンカチだろう
北山あさひ『崖にて』2020

清潔なハンカチのような嘘をつく この青空をなくさないため
浅羽佐和子『いつも空をみて』2014

つかまえたはずが捕まえられていて洗濯ばさみに垂れるハンカチ
松村正直『紫のひと』2019

川岸の小舟のような雑貨屋であなたが買ってくれるハンカチ
江戸雪『声を聞きたい』2014

ハンカチはヨットを想うつぶつぶを幾万と抱く果物置いて
三好のぶ子「かばん」2003年5月

かの時のハンケチひそと開き見て雨後に立ちたる虹の香をかぐ
前川佐美雄 捜神』1964

本当は誰かにきいてほしかった悲鳴をハンカチにつつみこむ
笹井宏之『てんとろり』2011

ハンカチを落としましたよああこれは僕が鬼だということですか
木下龍也『つむじ風、ここにあります』2013

全身を濡れてきたひとハンカチで拭いた時間はわたしのものだ
雪舟えま『たんぽるぽる』2011

うすばかげろういろのはんかち胸にいれ草庵へゆく草庵は春
東直子『春原さんのリコーダー』1996

鶴の骸【むくろ】は折鶴を折るやうに 思ひ出はハンカチを畳むやうに
笹原玉子(出典調査中)


こんな感じです。

2021年7月30日追記1 いろいろな特徴

コメントはナシのつもりでしたが、かんたんに追記します。

「ハンカチ」には以下のようにいろんな特徴があります。
上記にはすべての歌をあげきれませんでしたが、この特徴はほぼまんべんなく詠まれているようで、これからもう一段階、詩的に深まる可能性を感じる題材です。

形状:小さい布 正方形
清潔 毎日変える
おしゃれ 繊細
匂い:香水 汗
拭くA:涙や汗の吸水
拭くB:汚れの拭きとり
洗濯、アイロンがけ
ひろげる たたむ
包む・かぶせる
振る:別れのときなど、遠くから見えるように
握る・噛む:緊張などの心理表現 
胸ポケット 
胸に名前(昔の幼稚園では名札にしていた)
遊ぶ:ネズミやとんぼをつくる
忘れる・・失くす 必要なときにない
落とすA:気を引くためにわざと落とす(常套的な作戦)
落とすB:ハンカチ落し=相手が気づかぬように「鬼」にする
ハンカチの木:植物の名前

この中で「落とす」系はちょっと注目だな、と思っています。
上には2首をあげました。

君の落としたハンカチを君に手渡してぼくはもとの背景にもどった
斉藤斎藤『渡辺のわたし』2004
ハンカチを落としましたよああこれは僕が鬼だということですか
木下龍也『つむじ風、ここにあります』2013

他にも
夜は実にさみしい朝を連れている ハンカチ落としのハンカチがない
東直子『十階』
など散見しました。

2021年7月30日追記2 俳句川柳も少し

■俳句

ハンカチにつつむ東京暮色かな
西原天気『けむり』2011

ハンカチを干していろんなさやうなら
西原天気(同上)

ハンカチに包み空蝉薫るなれ
澤好摩(出典調査中)

「ハンカチ」はさほど多く詠まれていないみたいで、
(=俳人の表現意欲をあまりそそらないことを意味します)
上記以外はあまり印象に残りませんでした。
(と評価みたいなことを言えるほど俳句を知っているわけではなく、これはいわゆる「個人の感想」です。)

■川柳

作者に偏りがありますが、短歌俳句では見かけない発想の句がありますね。

ハンカチを捨てるぐらいは出来そうだ
定金冬二『無双』1985

死者のハンカチは白かろうはずがない
定金冬二(同上)

ハンカチを三度振ったら思い出せ
筒井祥文『座る祥文・立つ祥文』2019

はんかちにきゅうきゅう吸われゆくわたし
畑美樹『現代川柳の精鋭たち』2000

ハンカチは警察官のかたちして
樋口由紀子『樋口由紀子集』(セレクション柳人)2005

ハンカチは兵のうしろに落とすべし 樋口由紀子(同上)

干したままのハンカチがある私の胃 樋口由紀子(同上)


2021年8月13日追記
「俳句の箱庭」さんより以下教えていただきました。

「三夏の季語としての「ハンカチ」句が圧倒的に多いのですが、「ハンカチの花」(初夏)という植物季語が1句ありました。
ハンカチが季語ではないハンカチ句としては、
ハンカチに土筆ひと束曇りけり
鈴木鷹夫『大津絵』
ハンカチに薬臭のある薄氷
正木ゆう子『悠HARUKA』
などでした。」

2021年7月24日土曜日

ミニ52 ぐんぐん・どんどん・みるみる

 ピックアップ

呼ぶたびにどんどん遠くなる君の一度だけ振りむきし瞬間
渡辺松男『雨(ふ)る』2016

桁数がどんどん増えてもう声をころせないもう勝ち負けはいい
兵庫ユカ『七月の心臓』2006

役にたつ嘘はどんどんつくべきだ例えば「人はひとりじゃない」と
松木秀『5メートルほどの果てしなさ』2005

ぐんぐんと田打をしたれ顳顬は非常に早く動きけるかも
ルビ:田打【たうち】/顳顬【こめかみ】
結城哀草果『山麓』1929

WWWのかなたぐんぐん朝はきて無量大数の脳が脳呼ぶ
ルビ:WWW【ウェッブ】
坂井修一『スピリチュアル』』1996

ナス、オクラ自分で立つがミニトマトぐんぐん伸びて自分で立てず
奥村晃作『多く連作の歌』2008

みるみる森を村落を田土を平面に押しひろげてのぼる機体!
ルビ:田土【でんど】
前田夕暮『水源地帯』1932

それからの金魚ぎっしり炊きあがりみるみる性欲ふえてゆきます
瀬戸夏子『そのなかに心臓をつくって住みなさい』2012

興味がありましたら以下本編を御覧ください。


ぐんぐん・どんどん・みるみる

どんどん、ぐんぐん、みるみる。
これらは、変化や進捗に勢いがあって急激なさまを表します。

 どんどん追い抜く
 ぐんぐん追い抜く
 みるみる追い抜く

--似ていますよね。意味はほとんど同じです。

 でも、説明しにくい微妙な違いがあり、わたしたちは無意識にそれを使い分けて、最適な表現を選びとります。

・「どんどん」は汎用性が高い。良い変化にも使うが、悪い変化にも用いる。
  「仕事がどんどん捗る」「一人でどんどん行ってしまう」「病気がどんどん悪化する」

・「ぐんぐん」はそのものの内包されたパワーを感じさせる。
 「子どもがぐんぐん育つ」など、普通は良いイメージ。

・「みるみる」は変化に対して特に視覚的な感動や驚きを表すことに重点がある。
  「汚れがみるみる落ちる」「涙がみるみるあふれ出る」 

一般的にはこのような違いがあると思います。

これらの言葉を短歌に使うと、迫力があって、しかも微妙なニュアンスを捉えるような歌になり得るようです。


本日の闇鍋全データは 162350歌句
 うち短歌は 115733首です。
 そのなかに、どんどんを含む短歌は36首、ぐんぐんを含む短歌は24首、みるみるを含む短歌は22首ありました。

それを全部並べると多すぎるので、表記に疑問がある歌などを除いて、コメントなしで列挙します。
どうぞたっぷり味わってください。

■どんどん

呼ぶたびにどんどん遠くなる君の一度だけ振りむきし瞬間
渡辺松男『雨(ふ)る』2016

ゆく雲がどんどんことばから逃ぐるきみ逝きて照るひかりの悍さ
渡辺松男『雨(ふ)る』2016

ため込んだ不満憤懣憤怒とかどんどん出て行け下痢は嬉しい 久保芳美
『金襴緞子』2011

雨傘がどんどん海へつづくのが鬱のごとしいや祭りのごとし
高瀬一誌『スミレ幼稚園』1996

神様とわたしどんどん遠ざかる夜ごと赤方偏移のしらべ
佐藤弓生『眼鏡屋は夕ぐれのため』2006

ほほゑみがどんどん深くなつてゆくピーター・ヒッグス八十三歳
坂井修一『亀のピカソ―短歌日記2013』2014

コンパスの軸はどんどんずれてゆく春のくるくる石畳の上
三好のぶ子 「かばん」1998・6

胃に落ちるチョコよ苺よ アマンドを食べてどんどん馬鹿になりたい
柴田瞳(出典調査中)

わり算の予習復習割つて割つて子らはどんどん小さくなりぬ
小島ゆかり(出典調査中)

からだどんどん古びてほつれゆく秋よ水の記憶は淡くなるのみ
松村由利子 「詩客」2018-08-04

花殻はどんどん摘まねばだめと言う手紙を捨てるようにあなたは
松村由利子『大女伝説』2010

役にたつ嘘はどんどんつくべきだ例えば「人はひとりじゃない」と
松木秀『5メートルほどの果てしなさ』2005

火星のプリンセスどんどんいなくなってく彼女の髪だけを切りたい
瀬戸夏子『かわいい海とかわいくない海 end,』2016

やってくる うどんがどんどん からっぽの胃のイマージュに うどんがどんどん
石井僚一『死ぬほど好きだから死なねーよ』2017

「あ、ごめん」と飛ばしたボールは白線を超えてどんどん自由になった
千葉聡『飛び跳ねる教室』2010

負の側に立たされた今を見つめればどんどんどんどん痩せゆく時間
大村早苗『希望の破片(かけら)』2004

「みおちゃんママ」などと呼ばれて手を振りしわれはどんどん腑抜けとなりぬ
鶴田伊津『夜のボート』2017

ちがうひとを好きになることあるけど生まれた者はどんどん生きる
東直子「短歌往来」2006・05

こうもりがどんどん飛んでいる空を鼻血が出ないように見上げる
東直子『青卵』2001

桁数がどんどん増えてもう声をころせないもう勝ち負けはいい
兵庫ユカ『七月の心臓』2006

酸‌漿‌ほ‌ど‌だ‌つ‌た‌と‌い‌ふ‌が‌ど‌ん‌ど‌ん‌ふ‌く‌ら‌ん‌で‌こ‌の‌さ‌き‌を‌ろ‌ち‌の‌目‌
平井弘『振りまはした花のやうに』2006

どんどん捨ててどんどん雑誌また捨ててさびしいさびしい人の言葉を
米川千嘉子『滝と流星』2004

美しい田舎 どんどんブスになる私 墓石屋の望遠鏡
北山あさひ「短歌研究」2014・9


■ぐんぐん


馬鹿げたる考へがぐんぐん大きくなりキャベツなどが大きくなりゆくに似る
安立スハル『この梅生ずべし』1964

靴持たぬゆゑに歩けぬ向日葵はぐんぐん空へのぼるほかなし
伊藤一彦『海号の歌』1995

ナス、オクラ自分で立つがミニトマトぐんぐん伸びて自分で立てず
奥村晃作『多く連作の歌』2008

三角山緑三角頂点がぐんぐんのびて雲にささった
加藤克巳『球体』1969

ぐんぐんと田打をしたれ顳顬は非常に早く動きけるかも
ルビ:田打【たうち】/顳顬【こめかみ】
結城哀草果『山麓』1929

WWWのかなたぐんぐん朝はきて無量大数の脳が脳呼ぶ
ルビ:WWW【ウェッブ】
坂井修一『スピリチュアル』』1996

風に舞うコンビニ袋ぐんぐんと初めて空を見つけたように
若草のみち 「かばん」(時期調査中 2014ころ)

鉛筆を削ること好きなこどもゐてえんぴつぐんぐん短くなるも
小池光『梨の花』2019

タクシーの車体をぐんぐん流れてく五月の空と雲とその影
小島なお『乱反射』2007

回遊魚の群ぐんぐんとめぐりつつ 地球は水素爆弾をもつ
小島ゆかり『憂春』2005

しらないものぜんぶぐんぐん繫いでく映画の中で「カワイイ」と言う
杉山モナミ 『ヒドゥン・オーサーズ 』2017(19人の作品集・Kindle)

雑草はとても大切ぐんぐんぐんひき離されてく交差点です
杉山モナミ 作者ブログ「b軟骨」2011・3

路面には「とびだし注意」の白き文字ぐんぐん迫りその上を行く
大島史洋『ふくろう』2015

赤トンボ行き先ある如ぐんぐんと帰りゆくなりわれの小ささ
冬道麻子『森の向こう』1988

フラミンゴ我にぐんぐん迫り来る真昼の幻視ロード自転車
武富純一『鯨の祖先』2014

何者か夫を杭打つと思ふまでぐんぐん眠り沈みゆくあはれ
ルビ:夫【つま】 杭【くひ】 打【う】
米川千嘉子 (出典調査中)

■みるみる


水たまりみるみるふえて水無月の街はみづみづしき器なり
荻原裕幸(出典調査中)

みるみるにテレヴィの枠よりしたたりて腥き血は床に澪れき
ルビ:床【ゆか】
葛原妙子『朱霊』1970

夜明け 林檎の歯型みるみる鮮やかになりて恋敵の秘密知る
魚村晋太郎『銀耳』2004

救助隊員みるみる小さくなってゆく唇に苦心の接吻を遂ぐ
高柳蕗子『潮汐性母斑通信』2000

黙礼して過ぎれば何か言いかけてみるみる禿げる御尊父様よ
高柳蕗子『潮汐性母斑通信』2000

茄子色にみるみる腫れて来しあたり眼をねらえ眼を俺は熱くなる
佐佐木幸綱 (出典調査中)

こなゆきのみるみるふるは天界に蛾の老王の身をふるうわざ
佐藤弓生『眼鏡屋は夕ぐれのため』2006

それからの金魚ぎっしり炊きあがりみるみる性欲ふえてゆきます
瀬戸夏子『そのなかに心臓をつくって住みなさい』2012

みるみる森を村落を田土を平面に押しひろげてのぼる機体!
ルビ:田土【でんど】
前田夕暮『水源地帯』1932

降る花はみるみるうちに君に積むいよよ手に持つのり弁に積む
藤島秀憲『ミステリー』2019

未来に帰りたくないと泣く少年の頭がみるみる禿げてゆく夜
穂村弘(出典調査中)

冬の透明さに行ってしまった友だちがみるみるなじむ空気の冷たさ
柳谷あゆみ 『ダマスカスへ行く 前・後・途中』2012


■関連

あれよあれよ
いつの間にか覚えた技をかけてみてあれよあれよとさびしくなった
東直子「さがな。」2005・04

見る間に
春の雨雪となりつついみじもよ見るまにつもる濡れたる屋根に
三ヶ島葭子(出典調査中)

家一つ建つと見るまにはや住める人がさえざえと秋の灯洩らす
安立スハル『この梅生ずべし』1964

よぢれつつのぼる心のかたちかと見るまに消えし一羽の雲雀
藤井常世『紫苑幻野』1976

とかげ吐くように吐く歯磨き粉の泡の木曜日がみるまに繰り上がる
野口あや子『眠れる海』2017


いかがでしたか?

ミニアンソロジーにしてはボリュームたっぷりでしたね。



2021年7月9日金曜日

満62:父母と雪 その6

Ⅵ その他の〈父+雪〉〈母+雪〉


■〈母未満〉


先に「未完の〈父〉」のところで、自分が父になることを知らない段階の父を取り上げました。

それとは違うのですが、〈母〉にも〈母未満〉という段階があります。


牡丹雪あるいは母に降りけらしわれがうたかたなりけるむかし
塚本邦雄『波瀾』1989


一方、もう一味違う〈母未満+雪〉の歌も発見しました。

自分の母でなく、恋人や女ともだちが〈母〉になることを詠む歌です。


母か堕胎か決めかねてゐる恋人の火星の雪のやうな顔つき
荻原裕幸『甘藍派宣言』1990


うーん。この雪はいったい何でしょう……?
火星は熱い星だし、字面も「火」。「雪」は真反対のもの。
母か堕胎かという迷いが、火星と雪ぐらいに真反対の両極だという表現だと思います。

歌の主体はその恋人を、どんな顔で見守っているのか。
そっちのほうが気になります。
だって、恋人が堕胎するかもしれない胎児の父ですよね。いや、違うのかも? 

もう1首、こういうのはどうでしょう?


友人のひとりを一人の母親に変へて二月の雪降りやまず
光森裕樹『鈴を産むひばり』2010


女ともだちが〈母〉になる、ということを詠む歌。
それはどういう心情なのでしょう?
そして、この「二月の雪」の役割は?

その「女ともだち」が〈母〉になると、今までのようにつきあえなくなるだけでなく、全く別の位相に生きる存在になってしまうでしょう。
真冬の二月の〈雪〉というのは、人を隔てる分厚い壁のようなものでしょうか。

これが例えばもと恋人で、他の人とのあいだにできた子どもだとか、イキサツがあったら、ゴシップ系・どろどろ系の歌になりかねないけれど、「女ともだち」としてあるので、イキサツにしばられず、純粋に、その人が〈友〉から〈母〉になることで遠のく隔絶感、という微妙なことをピンポイントで突くことができたのだと思います。


■そのほか、いろいろな〈父+雪〉〈母+雪〉


最後に、ここまでにとりあげなかったいろいろな〈父+雪〉〈母+雪〉の歌をあげておきます。

〈雪〉はどのような役割で関わっているのでしょう。


グレープフルーツ切断面に父さんは砂糖の雪を降らせています
穂村弘『水中翼船炎上中』2018

あなかそか父と母とは目のさめて何か宣らせり雪の夜明を
ルビ:宣【の】/夜明【よあけ】
北原白秋『雀の卵』

父にふる雪をみていた わたしたち田舎者だと母がつぶやく
東直子(出典調査中)

指を漏る何ものもなし幾万の母らの裡に雪おもき夜
浜田到『架橋』1969

ひたすらに雪融かす肩 母よ 僕など産んでかなしくはないか
吉田隼人「早稲田短歌」43号 2014・3


いかがでしたか。

お読みいただきありがとうございました。

軽い気持ちで書き始めたら意外におおごとになってしまいました。
時間と元気があるときに、もっときちんと調べて考察を深めたいです。


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父母と雪   その0 ピックアップ
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〈父〉〈母〉については、こちらもおすすめです。

ミニ49 消える父母
ミニ37 歩く父 歩く母


満62:父母と雪 その5

 Ⅴ 〈父〉〈母〉の《死》


《死》は重要なことですから、父母に限らず、《死》に関する歌はたくさん詠まれています。

〈雪〉 も、どういう心情にもフィットして、さまざまな歌に詠まれている人気語で、《死》ともいろいろな接点で結びついているようです。

〈父or母+雪〉の歌を集めてみると、《死》にまつわる歌がたくさんあります。

全部の歌は取り上げられませんが、分類しながら少しずつ例歌をあげていきます。


■〈父+雪+死〉


ふるさとに雪は降るとぞ死にそうで死ねない父を見舞いにゆかむ
大島史洋『ふくろう』2015


この〈雪〉は、寒さが父の体にこたえるだろう、という意味合いで詠み込まれていると思います。

次の歌はどうでしょう。

夕方の吹雪はわれらを隠したり父の車で父を運びぬ
岡崎裕美子『わたくしが樹木であれば』2017


この歌は「死」と言っていないのですが、「父の車で父を運びぬ」とことさらに言うところになんとなく含みがあり、〈父〉は遺骨になっているんだな、と感じさせます。

いまこの家族は、家族が遺骨の父と父の車のなかで、閉じた空間でいっしょにいて、最後に父に抱かれるようでもあります。〈雪〉はその親密な時を外界から《遮断》してくれる。そういう役割を果たしていると思われます。


■〈母+雪+死〉 帰省して母の死を見届ける


〈母+死〉の歌の代表は、斎藤茂吉の連作「死にたまふ母」※でしょう。

※「死にたまふ母」は「みちのくの母のいのちを一目(ひとめ)見ん一目見んとぞただにいそげる」「死に近き母に添寝のしんしんと遠田のかはづ天に聞ゆる」などで知られる連作で、母の死に目にあうために帰郷し、その死に寄り添い見届けるドラマ仕立てになっている。

〈ふるさとの父or母〉が危篤で帰省する、というシチュエーションは、茂吉の「死にたまふ母」を抜きに語れないと思います。

ただし、連作59首のなかに〈雪〉を含む歌は数首※しかなくて、〈雪〉は〈母の死〉の表現にさほど大きい役割は負っていないと思います。


吾妻やまに雪かがやけばみちのくの我が母の國に汽車入りにけり
うらうらと天【てん】に雲雀は啼きのぼり雪斑【はだ】らなる山に雲ゐず
山かげに消【け】のこる雪のかなしさに笹かき分けて急ぐなりけり
蔵王山【ざわうさん】に斑【はだ】ら雪かもかがやくと夕さりくれば岨【そば】ゆきにけり
など。


坪野哲久の「百花禱」(『百花』1939)も、茂吉の「死にたまふ母」と共通したシチュエーションの連作です。
ただ、「百花禱」31首のうち「雪」を含む歌は10首と数が多いことに注目しました。

家ゆきてあくなき母の顔をみん能登の平に雪あかねすも
坪野哲久『百花(びやくげ)』1939


この歌は、茂吉の「吾妻やまに雪かがやけばみちのくの我が母の國に汽車入りにけり」と似て、ふるさとの情景としての雪の描写だと思われます。

しかし、以下の歌の〈雪〉は、〈母の命〉のゲージに呼応するかのようです。

母よ母よ息ふとぶととはきたまへ夜天は炎えて雪零すなり
ルビ:夜天【やてん】/炎【も】/零【ふら】
坪野哲久『百花(びやくげ)』1939

天地にしまける雪かあはれかもははのほそ息絶えだえつづく
(同上)
牡丹雪ふりいでしかば母のいのち絶えなむとして燃えつぎにけり
(同上)
いのち細れる母のくちびるうるほさん井桁に高く雪ふりつもる
(同上)
曉しじま零りくる雪はちりぢりに井底に青きひかりとなりて
(同上)


これらの〈雪〉は、〈命〉と必ずしも敵対しているわけではなく、その〈命〉の終焉を祝福し、魂を鎮めものであるかのように見えます。
つまり、「死にたまふ母」よりも「百花禱」のほうが、〈雪〉の役割が大きいと思います。

ほかにも少し〈母+雪+死〉の歌をあげておきます。

うつしよに母のいまさぬ四季めぐり今朝甲斐が嶺に雪しろく積む
三枝浩樹『時禱集』2017

雪の夜に過去形のうた一つ書く母の一生のはや過ぎたりと
ルビ:一生【ひとよ】
齋藤史『渉りかゆかむ』1985
※「母死す。両眼失明、老耄の九十一歳」という詞書を含む一連にある歌。


〈母+雪+死〉の〈雪〉は必ずしも現実の雪でなく、心象としての〈雪〉を詠み込む場合もあります。


病室が冥府にかはる数時間母の眠りに雪ふりしきる
武下奈々子(出典調査中)

てのひらに常に握りてゐし雪が溶け去りしごと母を失ふ
春日井建『朝の水』2004


このような〈雪〉にも、先の坪野哲久『百花』のところで書いたように、〈母の命〉のゲージに呼応しつつ、その〈命〉の終焉を祝福し、魂を鎮めるかのような働きがあるようです。

■〈亡父〉〈亡母〉と〈雪〉


〈父〉〈母〉は死後も出番があります。


死してのち死者老ゆるとぞ雪の夜の鏡ひらけば亡母少し老ゆ
馬場あき子『雪木』1987

このゆふべ吹雪はげしき天上に父母には父母の浄土もあらむ
永井陽子(出典調査中

たまさかに舞いくる雪の夕日かげ家跡にきて遊べ父母
武川忠一『秋照』1981


次の歌も〈亡母〉に該当するでしょうか。


母を知らぬわれに母無き五十年湖に降る雪ふりながら消ゆ
ルビ:湖【うみ】
永田和宏『百万遍界隈』2005


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父母と雪   その0 ピックアップ
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満62:父母と雪 その1

父母と雪

父と母は誰にとっても重要な存在。
短歌によく詠まれます。

また、雪というものも大人気の題材です。
雪は何と取り合わせても美しさ清らかさを添えるすぐれた題材です。

だからなのか、他にも要因があるのか、父母を詠む歌には雪がよく詠み込まれます。
本稿ではその「他の要因」を検証しながら、同時に歌を鑑賞していこうと思います。


■凡例などーーーーーー
・本稿は、現実の父母や雪のことでなく、短歌の言葉としてのイメージを論じます。
詩歌領域では、一般の言語表現活動(会話や散文)と異なる特殊な意味を帯びて用いられることがしばしばあります。さらに詩歌の中でもジャンルによって違いがあり、本稿は短歌に用いられるときのイメージについて考察します。父母のイメージは定型詩として近いと思われる俳句ともだいぶ違います。)
・言葉の父母や雪のことを〈父〉〈母〉〈雪〉と表記して、現実のものと区別します。
・言葉が帯びる抽象的なイメージを《 》で表すことがあります。
 例:〈父〉には《威厳》が期待される。
・他の語もこれに準じて〈 〉《 》で表すことがあります。
ーーーーーーーーーーーー


Ⅰ 数値で検証 父母と雪

 ★この項の数値は2021年6月初旬に算出しました。


■〈父〉より〈母〉が多く詠まれる


まずは、〈父〉と〈母〉はどのぐらい詠まれているか、頻度を比べてみました。


本日の「闇鍋」短歌総データ 115,493首
 うち、
  〈父〉を含む歌  1733首 (1.50%  67首に1首)
  〈母〉を含む歌  2369首 (2.05%  49首に1首)

※〈父〉と〈母〉両方を含む歌は除きました。

   

全短歌の1~2%ぐらいで、どちらもなかなかの高頻度※ですが、〈父〉より〈母〉のほうがいくぶん多いようです。

※たかが1%や2%と思ったら大間違い。
 ありとあらゆるもの、すなわち万象のなかで、1%も2%も詠まれている題材は破格の大人気と言えます。
 (そも万象の数は万なんかではきかないし。)


■〈父〉と〈雪〉は相性が良い?


では、〈雪〉はどうでしょう?

〈雪〉を含む歌は2641首(2.29% 44首に1首)

これも高率です。


つまり〈父〉〈母〉と〈雪〉は人気語どうし。

だから1首の中に重なることも多いのでしょう。
でも、それだけでなく、詩歌的な相性の良さ、というか、何か引き合う面があるのかもしれません。

  〈父+雪〉の歌 42首
  〈母+雪〉の歌 38首
   ※〈父+母+雪〉である歌は除きました。

〈母〉のほうが〈父〉より多く詠まれているにもかかわらず、〈父+雪〉は〈母+雪〉より多いですね。

〈父〉は〈母〉より〈雪〉と結びつきやすい。--〈父+雪〉という組み合わせには、歌に詠みたくなるような何らかの要素があるのでしょう。


■〈雨〉と比較


〈雪〉といえば〈雨〉はどうなの?

ちょっと気になりませんか。ついでにカウントしちゃいました。

〈雨〉を詠む歌は4057首(3.51% 28首に1首)

〈雪〉は2641首(2.29%)ですから、〈雨〉は〈雪〉より多く詠まれています。

ですが、〈父or母〉と〈雨〉との組み合わせは、それに比例して多い、というわけではありませんでした。

  〈父+雨〉の歌33首  …〈父+雪〉42首 ⇒〈雨〉は〈雪〉より少ない
  〈母+雨〉の歌41首  …〈母+雪〉38首 ⇒順当。

この数字から考えられることは、次の3点です。

〈父〉は〈雨〉より〈雪〉に付きやすい。あるいは〈雨〉と付きにくい。

〈父〉と〈雪〉はちょっと特別な関係であることがうかがわれる。

〈母〉にはそういう傾向は見られない。


ただし、数値上はあまり特徴がなかった〈母+雪〉のほうも、数値に出ていないだけで、実は何か特別な縁がある、ということもないとはいえません。

〈父+雪〉〈母+雪〉の取り合わせにはどんな隠れた要素がありのか、そこからどんな歌が詠まれるのか、次章から、実際の歌を見ながら考察を展開します。


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父母と雪   その0 ピックアップ
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満62:父母と雪 その0 ピックアップ

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父や母を詠む歌にはしばしば雪が出てきます。

集めてみました。こんな感じです。

まさびしき雪夜や父はおそろしく耳ていねいに洗ひて睡むる
伊藤一彦(出典調査中)

わが父よ汝が子はかくも疲れたり雪降るむこう山鳩の鳴く
岡部桂一郎『一点鐘』2002

あくたびの影立ち上がる雪の中父は背中を朱に染めたる
江田浩司(出典調査中)
※あくた‐び【芥火】 〘名〙 ごみや、ちりを焼く火。 特に、漁夫が、流れついた藻芥(もあくた)を集めてたく火。

子の口腔にウエハス入れあは雪は父の黒き帽子うすらよごしぬ
小池光(出典調査中)

三匹の子豚に實は夭折の父あり家を雪もて建てき
小池純代(出典調査中)

雪の夜を迷ひ来たれる軍服のうら若き父はわれを知らずも
水原紫苑『光儀(すがた)』2015

亡き父のマントの裾にかくまはれ歩みきいつの雪の夜ならむ
大西民子『花溢れゐき』1971

雪ちかき野は劇場のごと昏れつ まづ刺さむ肥りたる父と鷽
塚本邦雄『水銀傳説』1961
長身の父在りしかな地の雪に尿もて巨き花文字ゑがき
塚本邦雄『緑色研究』1965

くらぐらと夜に雪ふれば雪の声つかまえており父の補聴器
辻聡之『あしたの孵化』2018

舗装路の罅の間に解けのこる雪のかなしく父老いにけり
浜名理香(出典調査中)

夕方の吹雪はわれらを隠したり父の車で父を運びぬ
岡崎裕美子『わたくしが樹木であれば』2017

グレープフルーツ切断面に父さんは砂糖の雪を降らせています
穂村弘『水中翼船炎上中』2018

オルレアンに春の吹雪のまんじともえ不意にはげしく日本恋しわが母恋し
加藤克巳『春は近きか』2002
※卍巴(まんじともえ)=卍や巴の模様のように、互いに追い合って入り乱れること。

友人のひとりを一人の母親に変へて二月の雪降りやまず
光森裕樹『鈴を産むひばり』2010 

てのひらに常に握りてゐし雪が溶け去りしごと母を失ふ
春日井建『朝の水』2004

牡丹雪あるいは母に降りけらしわれがうたかたなりけるむかし
塚本邦雄『波瀾』1989

母よ母よ息ふとぶととはきたまへ夜天は炎えて雪零すなり
ルビ:夜天【やてん】/炎【も】/零【ふら】
坪野哲久『百花』1939

頭にかかる雪を払いて顔抱きし母の掌ぬくし雪道のよる
渡辺於兎男(出典調査中)
死してのち死者老ゆるとぞ雪の夜の鏡ひらけば亡母少し老ゆ
馬場あき子『雪木』1987

母の住む国から降ってくる雪のような淋しさ 東京にいる
俵万智『サラダ記念日』1987

ここはまだ母のふるさと玄関の雪は掻いても掻いても積もる
本田瑞穂『すばらしい日々』2004

雪の夜に過去形のうた一つ書く母の一生のはや過ぎたりと
ルビ:一生【ひとよ
齋藤史『渉りかゆかむ』1985

このゆふべ吹雪はげしき天上に父母には父母の浄土もあらむ
永井陽子(出典調査中)

あなかそか父と母とは目のさめて何か宣らせり雪の夜明を
ルビ:宣【の】/夜明【よあけ】
北原白秋『雀の卵』

いかがでしたか。
興味がありましたら以下の本編もご覧ください。

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満62:父母と雪 その3

Ⅲ  〈父+雪〉の特徴


ここからしばらく、〈母〉を離れ、〈父+雪〉の歌に密着して考察します。

■《威厳》《畏怖》など


詩歌のなかでも、また一般的にも、《威厳》は〈父〉のイメージのひとつです。
(現実の個々の父親は人それぞれに個性があるんですけど。)

そして、《威厳》は〈雪〉とも関係があるようです。

遠山にきれぎれの虹つなぎつつわが父の座に雪は降りつむ
辺見じゅん(出典調査中)

《威厳》と〈雪〉のつながりというと、このような雄大な雪山の姿が少し関わっていそうです。
が、次のような歌をみると、〈雪〉の役割は、雪山の雄大さだけでは説明しきれないと感じます。
なんだかわからないけれど。

偉大だった父たちの死よ掌の上の硝子の球の中に雪降る
ルビ:掌【て】
佐々木六戈『佐々木六戈集』2004

父よ男は雪より凛く待つべしと教へてくれてゐてありがたう
ルビ:凛【さむ】
小野興二郎『天の辛夷』1979

長身の父在りしかな地の雪に尿もて巨き花文字ゑがき
塚本邦雄『緑色研究』1965

 おしっこで花文字が書けるほどの長身ってすごい。
 個人的には、威厳ある父を詠む歌群の中でこの歌がいちばん偉そう。笑


また、《威厳》を通り越して、〈父〉への《畏怖》のような感覚をあらわす歌もあります。そういう歌では、なぜか〈雪〉が〈父〉を怖いものに変えてしまうらしいのです。

死ぬまへに孔雀を食はむと言ひ出でし大雪の夜の父を怖るる
小池光『廃駅』1982

鋭角に葱切りゆける包丁は大雪の夜に父が砥ぎたる
遠藤由季『鳥語の文法』2017

〈雪〉が〈父〉のなにかの要素を強めすぎて、通常の父性を通り越してしまうかのようです。

また、〈父〉という属性はそれを担う者を傷つけ蝕むほどきびしい、という感じ方がどこかにあるようです。ひらたく言えば職業病?

■耳を澄ます父


〈雪〉は〈父〉の謎の能力(?)を呼び起こすこともあるようです。
〈父+雪〉の歌で「耳」をとぎ澄ますような歌が2首、目にとまりました。
ひとつはこれ。

まさびしき雪夜や父はおそろしく耳ていねいに洗ひて睡むる
伊藤一彦(出典調査中)

なぜ雪の夜にことさら耳をよく洗うのか。
もしや無音で降る〈雪〉の静寂に〈父〉が聞くべき特別な何かがあるのでしょうか?
(ちらっと「犬笛」を想起してしまった……。)

ヒントになるかもしれないのが次の歌です。

くらぐらと夜に雪ふれば雪の声つかまえており父の補聴器
辻聡之『あしたの孵化』2018

この歌の〈父〉は普通なら聞こえない「雪の声」を捉えています。
補聴器は聴力の衰えた老父を想像させます。
でもこの〈父〉は、通常の聴覚のかわりに、無音領域の神秘的な〈雪〉の言葉を解する能力を得たかのようではありませんか。

〈雪〉は、すでに〈父〉という役を担えなくなった人にも、神秘を供給することができるようです。〈老父〉の衰えは、こういう表現なら哀れっぽくならずに描けます。

〈雪〉は音もなく降るものなので、「耳」や聴覚が詠まれるのでしょう。ちなみに、〈父+雪〉の歌に、目鼻が効く、視覚嗅覚が冴えるという歌は見当たりませんでした。

※ただし、このように何かと交信したり、次項のように何かと戦ったりするのは、「父」の基本イメージで、「雪」以外でも、きっかけがあれば発動します
 用例を集めにくいので、どのぐらいあるかわかりませんが、たとえばこれ。
 窓ぎわに乱丁のページ開かれて銀河へ放つ矢じり研ぐ父 永井陽子『葦牙』
 普通のページではだめで乱丁のページによって銀河と戦えるようになるのか?

■決死の覚悟と〈雪〉の名場面効果 


ところで、赤穂浪士の討ち入り場面に、〈雪〉は不可欠です。
ふりしきる〈雪〉のなかを《悲壮》な覚悟で戦いに赴く人々。
--そういう名場面をテレビで何度も見たような気がします。

二・二六事件も〈雪〉のイメージが切り離せません。テレビで降りしきる〈雪〉の場面を見たような気がします。
(実際の二・二六事件の日、雪は、積もっていただけで、降ってはいなかった、と、どこかで読みました。テレビで見た映像はどうだったろう。……私の頭が映像を編集して、降りしきる雪を追加してしまった可能性があります。)

そして、こういう「雪のなか決死の覚悟で戦いに赴く」という《悲壮感》が、なぜだかものすごく〈父〉に似つかわしいように思えるのです。

■〈父〉の《悲壮》に〈雪〉はつきもの?


「フランダースの犬」とか「マッチ売りの少女」とか、悲しいエンディングには雪がつきもの、とまでは言わないまでも、よくマッチすると思います。
〈雪〉はさまざまな出来事を白く覆い、悲しみや苦しみを鎮め、清く昇華させながらフェイドアウトしてくれる気がします。

それとは別ですが、「父は永遠に悲壮である」というのがあります。
名言辞典にも載る萩原朔太郎の詩(アフォリズム集『絶望の逃走』に収録)です。
この言葉、空の奥からおごそかに降るようないかにも名言というオモムキがあります。

家族を守って戦ったり、仕事などに志を持って取り組んだり、〈父〉はかっこいい戦士で、非業の死を遂げるヒーローの役柄なのか。

内心の声:詩歌の言葉だから、現実世界とのギャップがあってもいいけれど、でも「〈父〉ってそんなに悲壮かなあ。〈父〉ばっかりかっこよくてずるい」と思っちゃう。
母だって、いや父でも母でもない人だってヒーローであり得るのに、なんで〈父〉ばっかり〝いい役〟をとっちゃうのさ、じゃんけんしろよって。

こういういろいろが混ざって、短歌に詠まれる〈父〉には、劇の主人公のような現実離れしたイメージ傾向が生じ、「悲愴な覚悟で戦う父の戦場(舞台)には雪がつきもの」みたいになっていて、それが無意識のまま、なーんとなく了解されているのです。

バラバラに見てもわからないけれど、用例を集めてみればその傾向が感じらる。--詩歌的には、そのぐらい淡い段階が食べごろでしょう。

あくたびの影立ち上がる雪の中父は背中を朱に染めたる
あくたび=芥火 ごみや、ちりを焼く火
江田浩司(出典調査中)

何かを燃やしていた父が火を背にして立ち上がる。少し怖い姿です。
何かを焼き捨てたのか、背を染める「朱」は血の色を想わせ、非常に強い決意をもって立ち上がった感じがします。
また、〈雪〉があることで、それがただの個人的な怒りや欲でなく、何か大義のある決意のようにも思えます。

■〈雪〉は〈父〉というミームを暗示

〈父〉のこうしたイメージは、父となった者たちがを遺伝子のように受け継いでいくことが期待されている、つまり「悲壮な決意で戦う戦士のような父であれ」というミーム※になっていると思います。

ミームは、遺伝子が生物を形成する情報を伝えるように、文化を形成する情報を伝えるもの。模倣子、意伝子と訳される。

〈父〉はいろいろな内容で短歌に詠まれていますが、このミームに軸足を置いて〈父〉を詠む歌では、個別の事情や具体的に何と戦うかといったことはほとんど詠み込まれません。ミームの気配だけでじゅうぶん読ませます。

そして、〈雪〉は〈父〉といっしょに詠み込むだけでミームを召喚してくれる、という便利な言葉です。架空の父を詠もうが現実の父を詠もうが、それとない「悲壮な決意で戦う戦士のような父」への連想脈が歌を支えてくれます。

〈父+雪=ミーム〉は、一般的な「暗黙の了解」※よりももっと淡くて意識されにくい約束事であり、無意識の底でしか了解できないからこそ詩的効果が生じる、ともいえます。
  
指摘すれば多くが納得する程度のことが「暗黙の了解」です。例えば泥棒のイラストは、しばしば唐草模様の風呂敷包みを背負いほっかむりした姿で描かれます。現実にはそんな泥棒はいないけれど、それは泥棒の目印になりますよね、と言えば、たしかにそうだと多くの人は賛成してくれるでしょう。それに対して、〈雪〉が〈〉のミームの目印になる、ということはもっと不確かで淡い約束事だと思います

■老いてしまった〈父〉は


さて、そんな〈父〉が老いてしまったらどうなるのでしょう?

ちちのみの父の眉毛も譬ふれば雪のごとくに古りましにけり
北原白秋『雀の卵』1921

古典の歌では頭の白髪を雪に例えることが常套的でした。この歌はそれを眉にシフトして比喩として活性化しただけのように見えます。近代のこの歌の段階ではまだ〈父+雪=ミーム〉という約束事が成立していなかったようです。

しかし、次の歌は注目すべき点があります。

舗装路の罅の間に解けのこる雪のかなしく父老いにけり
浜名理香(出典調査中)

この「解けのこる雪」は、なぜ「かなしく父老いにけり」に続くのでしょうか?
老いた〈父〉が哀れだから?
そうなんですが、その哀感をなぜ「解けのこる雪」で表すのでしょうか?

この「かなし」、次のように読み解けないでしょうか。

--心身の衰えた老父もかつては雪の名場面を担う戦士だった。
 が、その名残はもうわずか。父の誇りの片鱗は「舗装路の罅の間に解けのこる雪」のようにいじらしく、今にも消えそうである。そんな父をみるのが悲しい。--

「解けのこる雪のかなしく」の部分は、するっと自然に読めるけれども一瞬その軌跡が見えないところがあります。それは、この〈雪〉の名残が〈父〉ミームの名残であるということです。そのことは意識されないまま、でもしっかりとイメージの筋を通すのです。

■太った〈父〉は刺される!?


さて、〈雪〉の野原は〈父〉が名場面で登場する舞台になり得ますが、次の歌は実に興味深いです。

雪ちかき野は劇場のごと昏れつ まづ刺さむ肥りたる父と鷽
塚本邦雄『水銀傳説』1961

この歌は、「〈父〉は雪の舞台で悲壮でかっこいい役柄を務める」ということを前提として、「肥満の父にはそんな役は務まらない」と考えています。
多くの人が無意識のまま受け入れている〈父ミーム〉を暴露し、「かっこ悪い父が刺される」という別の劇にしています。

この歌、価値は内容だけじゃないと思います。
これは、……カツ入れじゃないかしら。
詩的な食べごろを無意識のままにして温存してみんなで汁をすすっているようなこの状況に対してカツをいれるかのようで、すごく爽快じゃないですか。

もっとよく読んでみよう……。

①「肥りたる父」をなぜ刺すのか

「雪ちかき野」は「悲壮な決意で戦う戦士」の登場を待つ舞台です。

 ⇒そういう役が務まる〈父〉は、引き締まった身体であるべきである。
  精神的にも高潔さが求められ、私腹を肥やしたような体型の父は、雪がふる前に排除する。

この過激さは、太った父への美意識的な嫌悪、には釣り合わない。緩んでしまったミームに、そんなミームにあやかる人たちに、カツ入れしているんだと私には思えます。

②「鷽」をなぜ刺すのか

「鷽」については、「鷽替え」(災厄・凶事などを嘘としして吉に変える)という神事を思わせますが、考えようによって「鷽替え」は、対処すべきものと向き合わず、戦うべきものと戦わない、ごまかしではないでしょうか。
雪野の劇場にはそんな姑息な名の鳥もふさわしくありません。

※鳥の名前にかこつける詠み方は、「名にし負はばいざ言問はむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと」というような古歌の論法を掠めていて、過激な言葉遣いをしつつちゃんと伝統も意識している、というこころにくい表現だと思います。

これは手始めであり、「肥りたる父と鷽」を「まづ」刺して、他にも排除さるべきものを順々にやっつけていくんだぞ、という革命の始まりのようなノリも、味わい深い表現です。

■〈雪〉がなかったら


前項の歌で「雪ちかき野」が〈父〉の舞台の出番が近いことを意味していたわけですが、それならば、もし〈雪〉が来なかったら、〈父〉の出番もなくなってしまいますね。

父よりも疾く死にたけれ雪あらぬ東京の嘘のやうなあたたかさ
辰巳泰子(出典調査中)

作者がどこまで意識したかはわかりませんが、〈雪〉がなくて引き締まらずに温かい東京では、かっこよく戦士としての〈父〉の出番がない。

「父よりも疾く死にたい」というのは、そういう失望をしたくないからなのでしょうか?

■未完の〈父〉


〈父〉の悲愴にもいろいろありますが、そんなバリエーションのひとつに《夭折》《未完》というものがあります。

三匹の子豚に實は夭折の父あり家を雪もて建てき
小池純代(出典調査中)

「家を雪もて建て」たという情報からうかがえるのは、その〈父〉は雪のように純粋な理想に殉じて早逝したか、あるいはその理想を実践することなく病に倒れるなどしてしまったか、ということです。

いずれにせよ〈父〉としては未完であるわけですが、しかし、汚れたり醜態をさらしたりしなかったぶん、救いがあるような感じもします。

※三匹の子豚はそれぞれ藁の家、木の家、煉瓦の家を建てた。煉瓦の家の子豚以外は狼に食べられてしまう。(現在は、藁と木の家の子豚が煉瓦の家に逃げ込んで助かる話になっているらしい。)

未完の〈父〉をもう一首。

雪の夜を迷ひ来たれる軍服のうら若き父はわれを知らずも
水原紫苑『光儀(すがた)』2015

雪の夜に、自分が生まれるまえの若い〈父〉を幻視しているようです。これは父親になることを知らぬまま戦死してしまった青年の姿なのでしょうか。
迷い込んできた霊のようなあえかでこわれやすい感じ。魔法でどうかされているワケアリ王子様みたいでもあって、ものすごくステキだと思います。

この青年は〈父〉としてスタートできず、〈父〉のイメージである〈戦士〉としても《未完》であるのでしょう。この《未完》は美意識を刺激します。

※なお、この歌の作者は実際に軍人の父はを持つようですが、私は原則として、「詩歌は言葉の世界のできごと」として捉えているので、鑑賞も言葉の世界で完結させ、作者の個人的事実等と安易に結び付けない主義です。


〈父+雪〉をすっかり解明したわけではありませんが、今まで意識しなかったところまで少しは踏み込めた気がします。
今日はこれ以上考えてももう何も思いつかないと思うので、〈母+雪〉へ進みます。

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満62:父母と雪 その4

Ⅳ  〈母+雪〉の特徴


■〈母〉と〈ふるさと〉


前章では、〈父〉と〈雪〉との特別な結びつきを考察しました。
〈母〉と〈雪〉にはそうした〝特別〟はないのでしょうか。


集めてみたところ、〈母+雪〉の歌にはしばしば〈ふるさと〉が詠み込まれる、という傾向が見られます。

いったん〈雪〉を離れて、〈父+ふるさと〉と〈母+ふるさと〉の歌をざっとカウントしてみました。

 「父」+「故郷」(orふるさと) 18首
 「母」+「故郷」(orふるさと) 32首

※データベース(約115,500首収録)を「父」「母」「故郷」「ふるさと」の4つのテキストで検索してみました。
別表記や別表現(例えばパパ・かあさん・古里など)の歌はカウントしていません。

〈父+ふるさと〉の歌は、あるけれども少なめで、〈母+ふるさと〉のほうが倍ぐらい多いわけです。

現実には母だけでなく父も故郷に住んでいますから、この偏りはイメージの世界に何らかのバイアスがあることを示しているのでしょう。

〈母〉は、現実を超越し、いのちのふるさとへさかのぼる扉のような存在だからか、などと考えてみましたが、推測でしかありません。
わからないけれど先へ進みます。


■〈ふるさと〉はたいてい北国


ところで、人の出身地はあちこちですから、そこかしこが誰かの故郷でありえるわけです。

ところが、〈ふるさと〉の一般的イメージは、都市ではなくて田舎であり、唱歌「ふるさと」のような情景です。

加えて、一体なぜなのか、現代の短歌に詠まれる※〈ふるさと〉はたいてい北国です。

何か根源的な理由があるのか、それとも、北国・雪国出身の歌人がすぐれた〈ふるさと〉の歌を詠み、その結果としてそういうイメージが定着したのでしょうか。
危篤の母のために故郷にかけつける有名な連作「死にたまふ母」を詠んだ斎藤茂吉は山形県出身です。

いろいろなことのなりゆきの結果として、〈ふるさと〉といえばなんとなく北国になったのでしょうか。しばしば〈雪〉が詠み込まれています。

※古典和歌の〈ふるさと〉には地域は関係なかったようです。近代の作者にその萌芽が見られます。

※短歌だけでなく、昔の歌謡曲「北帰行」にも「北へ帰る旅人」という言葉が出てきます。いままで詩歌系の文脈では「人の故郷は北」が定番であり、それに対して、「南へ帰る」はツバメなどの渡り鳥の話みたいな感じでした。だから逆に、詩歌系文脈の「人が南の故郷に帰る」は幽かに新鮮だし、楽曲のタイトルで見たことがあるので、これからだんだん増えるのかもしれません。

[参考]北国・雪国出身の歌人の〈ふるさと〉

汽車の窓/はるかに北にふるさとの山見え来れば/襟を正すも
石川啄木『一握の砂』1910

吸ひさしの煙草で北を指すときの北暗ければ望郷ならず
寺山修司(青森県)『田園に死す』1965
 
空ひびき土ひびきして吹雪する寂しき国ぞわが生れぐに
ルビ:吹雪【ふぶき】/生【うま】
宮柊二(新潟県)『藤棚の下の小室』1972
 


■〈母+雪+ふるさと〉は定番?


理由はどうあれ〈母+雪+ふるさと〉という取り合わせの歌は、なんと6首もありました。
今回見つけた〈母+雪〉の歌は38首ですので、そのうちの15%が〈母+雪+ふるさと〉に該当したのです。
この組み合わせ、定番というか、言葉の定食セットみたいな感じです。

その6首は以下の通り。
「ふるさと」という語を使っていない歌も、内容で判断してカウントしました。

吾妻やまに雪かがやけばみちのくの我が母の國に汽車入りにけり
ルビ:吾妻【あづま】
斎藤茂吉『赤光』1913(「死にたまふ母」)

北ぐにの母は吹雪を運命とし風呂敷負いて子のわれを曳く
渡辺於兎男(出典調査中)

ふるさとの最上川面に雪ふるとテレビの前に釘づけの母
時田則雄『北方論』1982

母の住む国から降ってくる雪のような淋しさ 東京にいる
俵万智『サラダ記念日』1987

オルレアンに春の吹雪のまんじともえ不意にはげしく日本恋しわが母恋し
加藤克巳『春は近きか』2002
※  まんじともえ(卍巴)=卍や巴の模様のように、互いに追い合って入り乱れること。

ここはまだ母のふるさと玄関の雪は掻いても掻いても積もる
本田瑞穂『すばらしい日々』2004


故郷ではない場所に降る〈雪〉はふるさとの便りみたいなもの。
それどころか、〈ふるさと〉のカケラみたいに捉えている歌もあります。

〈雪〉は空から降るものなので、〈雪+ふるさと〉だったら、現実の地上のふるさとだけでなく、空にある魂のふるさとから降ってくる、という着想も射程に入ってくるはずですが、〈母〉が詠み込まれると、地上の故郷であって空ではない感じになります。


なお、〈父+雪+ふるさと〉はたった1首しか見つかりませんでした。レアですね。

でも、定番である〈母+雪+ふるさと〉の歌と読みくらべてみて、ちっとも違和感がなくて、なぜレアなのかわかりません。

ふるさとに雪は降るとぞ死にそうで死ねない父を見舞いにゆかむ
大島史洋『ふくろう』2015


この話題もそろそろ終わりにして、次に進みます。テーマは父母の死です。


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満62:父母と雪 その2



Ⅱ 〈父〉or〈母〉とふたり(子の立場から)


〈雪〉のイメージといえば《清浄》、そして音もなく降るので《静寂》でしょうか。
さらに、降り込めて《遮断》するという表現効果があると思います。

■〈父or母+保護される子+雪〉


まずは、幼いときに〈雪〉のなかで親に保護されていた記憶を〈子〉の立場から描く歌。

亡き父のマントの裾にかくまはれ歩みきいつの雪の夜ならむ
大西民子『花溢れゐき』1971

頭にかかる雪を払いて顔抱きし母の掌ぬくし雪道のよる
渡辺於兎男(出典調査中)

《清浄》な〈雪〉のなか、〈父〉か〈母〉と二人だけで、寒さなどから守られ、たのもしさ、やさしさを一身に感じています。
日常を離れ、雪で他を《隔絶》した特別な状況、その至福……。

■〈父or母+やや大きい子+雪〉


ただし、同じく雪のなかでも、子どもがやや大きくなっている場合は、雰囲気が違ってきます。

〈父+やや大きい子ども+雪〉では次の歌を見つけました。

父とゆく朝の雪原ときとして双翼の翳われらを摂む
ルビ:摂【つつ】
高島裕(出典調査中)

〈父〉には《戦う》というイメージもあると思いますが、〈父〉に同行する子は、その戦いの空気をわかちあえることがうれしく、ほこらしく感じているようです。

しかし、こういうことはめったになく、幼児期のあとは、〈父〉は近寄りがたい存在であるというイメージのほうが優勢です。

爾後父は雪嶺の雪つひにして語りあふべき時を失ふ
春日井建『青葦』1984

なお、〈母+やや大きい子ども+雪〉に該当する歌は、私のデータベースにはありませんでした。

■〈父or母+成人した子+雪〉


降る音が聞こえるやうな雪の夜愛しき人の名を母に告ぐ
本田一弘『銀の鶴』2000

こうしたことを母に告げるのは、しずかな晩、二人だけになったときがふさわしいでしょう。
ですので、このような告白は必ずしも雪の夜でなくてもいいかもしれません。

春の夜のともしび消してねむるときひとりの名をば母に告げたり
 土岐善麿『遠隣集』1951
という歌がよく知られています。

ただ、家族の歴史に新しい変化をもたらすことを〈母〉に告白する、ということは、家族・血縁・ルーツなどの連想脈を少し刺激しますし、〈雪〉には〈ふるさと〉のイメージもあります(後述)。
ですので、内容はよく似ていますが、「降る音が……(本田)」はやや厳粛な感じであり、ほのぼのとした「春の夜の……(土岐)」とは異なる味わいになっています。

■〈老父or老母+成人した子+雪〉


では、〈父〉〈母〉が老い、子どもが成人したらどうでしょう。

舗装路の罅の間に解けのこる雪のかなしく父老いにけり
浜名理香(出典調査中)

雪降るを母に告げつつ眼科医の長き廊下を手をつなぎ行く
宇佐美ゆくえ『夷隅川(いすみかわ)』2015

現実世界にはいろいろな老い方がありますが、短歌のなかではどうでしょう。

〈父〉は、短歌の中ではことさら《威厳》《強さ》などを期待され、詩的役柄としてプライドが高く、そのぶん、衰えることの哀れさが強いように思えます。

一方、短歌のなかの〈母〉は、あまり抵抗なくしぜんに保護される側になり得るようです。
(宇佐美の「雪降るを……」は解釈によって老母とは限らないのですが、子に保護されることに抵抗感は描かれていません。)

さらに、〈父〉の《威厳》《強さ》等々のイメージは強い美意識を伴っているようです。老父の衰えは、その美意識とのギャップという哀れも加わります。

老醜をさらすよりけがれのない夭折のほうがまし、という極端な美意識の潜む歌がたまにあります。

■〈亡父or亡母+成人した子+雪〉


さらに、二人でいっしょにいるわけではありませんが、心のありようとして、亡父亡母と成人した子が寄り添うような関係もあります。

わが父よ汝が子はかくも疲れたり雪降るむこう山鳩の鳴く
岡部桂一郎『一点鐘』

この父は亡くなっているとは書いてありません。でも、昔から鳥は死者の国と行き来できる存在として描かれてきましたので、「山鳩の鳴く」は死者の国をそれとなく暗示していると思います。

母を知らぬわれに母無き五十年湖に降る雪ふりながら消ゆ
ルビ:湖【うみ】
永田和宏『百万遍界隈』2005

この母はいっしょにいるのでなく、逆にずっと不在ですが、関連ありと思うのでここに置きます。

■〈父or母+子+雪〉(親の立場から)


子の口腔にウエハス入れあは雪は父の黒き帽子うすらよごしぬ
ルビ:口腔【くち】
小池光『バルサの翼』1978

子にとっては、優しくて頼りになる親に保護される幸福な時間。親の立場でもそれは幸福な時間であるはずです。
けがれのない幼児にとって、ウエハスと同じようにやさしい淡雪。天使のような子のそばにいて〈父〉もその清らかさにあやかる幸福。

でも、その淡雪は〈父〉の黒い帽子を「うすらよごし」てしまう。その微妙な屈折が読みどころだと思います。
大人である〈父〉は少しけがれていて、天からの清浄な糧を子のように受け止められない。

そのほかにも、〈父+雪〉には無意識下で特別な暗示が少しはたらいて、複雑な味わいを醸しているようにも感じられます。
次章ではそこに踏み込めるかもしれません。

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