2019年10月28日月曜日

富士の見立て(14) 富士には頂きがあるが欲には限りがない

人の欲喩えんかたは無かりけり富士の山にも頂きぞある 松永貞徳 T1672

What can we compare to human greed
when even Mount Fuji has a peak!

F:あら、これは道歌みたい。

G:たしかに狂歌して道歌したかという感じですが、一応初期狂歌集に出た。

F:ほえ? あ、「道歌したか」って洒落ですね。(笑)
 あの富士でさえ頂きがあるのに、人の欲は限りがないから例えるものがないという、これも見立てですね。

狂歌には塵がつもれば山になるほど不尽だから不二の題すき   敬愚

F:ん? 敬愚っていう狂歌師、いましたっけ?

G:敬愚は我が号なり。

F:えっ、えぇぇー!  おお、字数ほぼ合ってるぅ。

G:ほぼじゃないぜ。

F:わ、すみません。かんぺき。(汗)しかも「題すき」は「大好き」を掛けてるし。

その形(なり)ハ鼻てふよりも大空の手に引っぱられつつあるティッシュ  敬愚

F:むむ、これが富士の見立て狂歌なら、「富士は地球の鼻みたい、というよりも、箱から持ち上がるティッシュだ」っていうふうに見立てたんですね!

G:大地という箱から、富士が引っぱり取られる途中。スポンと抜けたら、栓が抜けたみたいに地球がすっ飛んで消える。ぱらぱら絵本にしてみたい!

(富士の見立てシリーズ 終)

富士の見立て(13) 富士詣り 夢で済ますか酒で済ますか

不尽の山夢に見るこそ果報なれ路銀もいらず草臥(くたびれ)もせず 鯛屋貞柳 T1734

Seeing Mt Fuji in a dream, your good luck is already here:
no tolls or tired legs..…beats going there to start the year!

G:見立てではないが、貞柳の名歌。
 富士詣りも富士の狂歌と川柳の定番のひとつで、富士登山で煩悩を清められるなどの信仰があった。
 でも実行するのはしんどい。山を来させる(モハメッドすらできなかった事)を夢で実行した方がよっぽど利己。

蓬莱の山で楽しき君が代やふしの薬に風は引くとも 茂喬 K1811

G:一方、この茂喬が祝う蓬莱は、古代中国で東の海にあると言われた仙境で、日本では富士が蓬莱とされることもあった。
 そして「ふしの薬」といえば、酒か。

F:きっと酒の銘柄に「蓬莱」とか「富士」とかがあったんでしょう。
 富士詣りは千代八千代の長寿を願うもので、風邪の薬として飲む酒は名前だけでも富士詣り。不老不死のご利益がありそう、っていう歌かな。
(続く)

富士の見立て(12) 三吉夢にスルガ・サブリミナル

時宜(よろ)しからぬ山はするがのふじなれや夏冬とらぬ雪の綿帽子 三休斎白掬 K1748

Fuji's Suruga (just-do-it) Peak is outrageous and wrong
to keep that thick, snow-white hoodie on all year long!

F:これって、さっき言った蜀山人の「駿河いちばん」のスルガの行為に及ぼうとしてダメよって拒絶された、というような意味も少し入ってますか?


G:そういうエッチな話かと思わせて、富士の雪の話だよ、と無邪気なオチ。「時宜しからぬ」は四季に従わない無作法の山、という意になる。


F:なんか富士ってスルガがサブリミナルでが潜んでいそう。

裾野よりまくり見たるお富士山甲斐で見るより駿河一番 蜀山人


富士の山たかねの雪は消えもせで早するがにはなすの初なり 無為楽 K1777


F:これは三吉夢※の絵の賛だそうですね。

G:これはお手上げです。(笑)

F:え、うそー。初夢の三つの吉をつなぐ文脈の裏に、例のサブリミナルで「新年早々に例のスルガをなして身ごもった」って書いてあるじゃないですか。

G:何でもそう見えてくる。

F:やだ、これってスルガ病? ナスまで怪しい。

※初夢に見ると縁起がいいとされている一富士二鷹三茄子のこと。これには「四扇(しおうぎ)五煙草(ごたばこ)六座頭(ろくざとう)」という続きがある。座頭は髪の毛を剃っているから「けがない」というしゃれらしい。
(なお、駿河国(今の静岡県)の名物を列挙したものとする説もある。)



G:じゃあこれは?

見し夢のふじより高き名をあげて鷹のごとくになれなれなすび 白玉翁 T1731

F:詞書に「ある人の春より秋までの間に富士鷹茄子を三度に夢みて悦びければ詠みてやる」とありますね。

G:これもようわからんが、「なれなれなすび」は音がよい。まじないみたい。元気出そう。

F:確かに、これはスルガ的な意味はなさそうですね。

 なすびはめでたさでは三番手。それを富士より高き名をあげる鷹みたいになれと、順位を逆転させる縦方向の上昇イメージがある。かつ、一方、なすびが鈴なりになって幸福がいくらでも増殖しそうな横広がりのイメージもあって、よくできていますね。

(続く)




富士の見立て(11) シュールで雄大な構図の両国橋

ほとゝぎす富士と筑波の天秚に両国橋をかけたかとなく 黒人 E(天明期)

F:富士と筑波を天秤に。これって、もしかして、すごいシュールな絵?

G:ホトトギスの声は古来「○○カケタカ」と聞きなされていて、この歌ではそれを「天秤にかける」として、両国橋を、二つの山を載せた天秤に見立てている。

F:これぞ見立て歌の代表っていう感じ。


F:あ、こっちの両国橋は股のぞきですね。

踏み跨ぐ両国橋の股ぐらに富士のすゝへの風薫る也 馬鹿人 K1806

F:両国橋で股といえばこっちの歌もある。これまたなんとも(笑)ですね。
 さっきの両国橋の歌とはちょっと違って、橋の股の下からのアングルで富士を見あげている。
 ところで、「富士のすゝへの風薫る」っていうのは、もしやアレですか?

G:アレ。
 諺に「沈香も焚かず屁もひらず」とあるが、富士山に限って双方出来る。

F:くすっ。富士の見立てってほんとうにシモネタが多いですね。「逆さ富士」とか。

G:そうですが、それ一つに行きどまらないほうがいい。「逆さ富士」は、死後の世界という別の暗示にも転じられる。シモネタで片付けたら惜しいこともある。

F:なるほど。ーーでも、もうひとつ股のぞき。

武蔵野に今日ハ遠慮もしら雪の富士を股から見る若菜摘み 貞意 D

On broad Musashi Moor today the snow brings informality 
as plucking young greens we see between our legs Mt Fuji!

F:股のぞきで見上げる富士とか若菜摘みとか、この歌も思わせぶりですが(笑)、それは置いといて、富士を遠慮なく股から見上げるような言い方が楽しいですね。
(続く)

富士の見立て(10) 美しいお尻

美しきふじのおやまにほの字かな、雪の肌えの塩尻のなり 信海T

G:さっきの月洞軒の『大団』と同時期の歌。
 月洞軒の師匠の信海は女嫌い狂歌師だったが、富士の「おやま」の美しさを塩尻に見立てた。

F:「尻」キター!(笑)
 調べましたよ。
 伊勢物語に「(富士山の)なりはしほじりのやうになむありける」っていうフレーズが出てくるんですね。
 で、「塩尻」とは、塩田で塩を取るために、砂を摺り鉢を伏せたような形に積み上げたものだそうですね。

(続く)

富士の見立て(9) 大団扇で雲を払う

むさし野にはゞかる程の団(うちわ)がな扇ぎてのけむ富士のむら雲 月洞軒 T1690

Oh, for an uchiwa broad as the Musashi plain to fan away
the swarms of clouds that block my view of Fuji today

F:古語辞典で調べたら、「はゞかる」はこの場合「いっぱいになる」という意味みたいですね。
 広大な武蔵野いっぱいの大団扇があればいい。富士の雲を払いのけてスッキリさせられるのに、ということでしょうか。

G これは武蔵野住まいの狂歌師月洞軒の歌集『大団』(約二千首収録)にある。歌集の題はこの歌からとられたのであろう。
 雲に情(こころ)あるならばという万葉歌(三輪山をしかも隠すか雲だにも情あらなも隠さふべしや/額田王)のアピールとはずいぶん異なるアプローチだ。
 また、異なる解釈として、富士から湧き出てこちらに向かって来る雲を扇いで散らしたいというのもあり得るだろうか。その場合なら、the swarms of clouds from Fuji that darken even dayと訳すのもいい。
 月洞軒の師匠の信海は特に富士を好んだが、気難しい人だった。先生の気を晴らしてあげたかったかもしれない。
(続く)

富士の見立て(8) 富士額はこう詠まれた

折り取りてかざす桜は手弱女の額の富士にかゝる白雲 一寸法師K1813

F:折り取った桜をやさしい女性の富士額にかざせば、富士にかかる白雲のようだ、と。

G:美しい。
 しかも富士額ならば、その額は池のようでもある。
 心の池だったらなおさらに面白い。

 また、富士額といえば日本では美人の条件だが、英語圏ではウィドウズ・ピーク(widow's peak)といって鼻っ柱の強い女性のこと。印象がずいぶん違います。

(続く)

富士の見立て(7) 富士のけむり 西行のゆくえ

西行のたばこの煙空に消て鼻の穴より出し富士のね 貞柳 (画賛)1734

As the smoke from Saigyo's tobacco vanishes in thin air,
descending from a nostril, Fuji's peak appears there.

G:これは上方狂歌の祖師貞柳が「富士見の西行」の絵に寄せて詠んだ画賛。
 西行には「風になびく富士の煙の空に消えてゆくへもしらぬわが思ひかな」
という有名な歌があります。

F:その歌を吟じる西行の横顔にうしろの富士が重なって、富士の煙がちょうど西行の鼻のあたりから出ている図が思い浮かびます。
 富士は古代からときどき噴火していて煙が出ている姿が普通だったんですね。

G:ご参笑に、
「風になびく富士の煙の空に消えて行衛(ゆくえ)も知らぬ法師なりけり 白玉翁(T1731)」
などもあるよ。
 西行の遺体の行方がわかっていない、という話もある。その意味も含まれるかも知れない。

行衛(ゆくえ)しらぬ時しらぬとて白雪をひっかふりふるふしのいたゝき 信海 T1688

As for the season and his destination, Fuji doesn't know
he just keeps his old crown well-covered with the snow.

F:富士が「知らぬ知らぬ」と雪で頬っかむり?

G:そう。全て忘れた白髪老士の痴呆症を装っている。
 「行方しらぬ」は先にあげた西行の「ゆくへもしらぬわが思ひかな」、そして「時しらぬ」は、伊勢物語「時しらぬ山は富士の嶺いつとてか鹿の子まだらに雪のふるらむ」から。どちらもよく富士の狂歌の本歌になる。

瓦屋は煙立つと云う富士に似て夏でも雪を見する卯花 庵丸K1787

F:西行ではないけれど、煙をもう一首。「瓦屋は煙立つ」ってどういう意味でしょう?

G:瓦屋はいつも瓦を焼く煙をたてているから富士に似ている。
 また卯花も夏に白く咲き乱れるさまが雪などに喩えられる。

(続く)

富士の見立て(6) これはシモ系? 影を踏まれないように引っ張る?

品川に富士の影さえ引きにたり貝ふむ泥の足を厭うて まさ雄K1806

F:あ、これはもしかして、シモ系だったりしますか?品川には遊郭があったような。それに「にたり貝」は女性の大事なところに似ている貝ですよね。

G:品川の風景の浮世絵に、着物の裾をまくって足をむき出しにした女性が描かれている。潮干狩は足でさぐって蛤を「踏む」と言う。明治時代までは女人禁制だった富士は、女性に踏まれては不面目だったろう。

F:あー、なるほど。それで影さえ踏まれたくなくて、品川の影を引っぱっているのか。(笑)

(続く)

富士の見立て(5)もぐさの山も富士

夢のように睦月は立てきさらぎの二日灸(ふつかやいと)に富士を見る哉  千舩 D

The First Month, when all was young, passed like a dream for me
and in the Second Day Moxa of Month Two I see Mount Fuji!

F:二日灸とは陰暦二月二日に灸をすえることですね。
 お灸の効能が倍になって無病息災で暮らせるとかで。

G:たぶん一月は夢と過ぎ、その初夢の覚めぬまま、二月の二日灸のもぐさにめでたい富士を見つけている。

F:こじつけてでも縁起の良いものを見出そうとするのがおもしろい。
(続く)


富士の見立て(4)霞の衣を干す & 翻訳は失われるものもあるがre-create

立ちそめた霞の衣はる風にかけて干すらん富士の大たけ 栗毬 K 1780

The Spring winds dry the newly risen Saho`s dress of haze
on Mt Take (though neither bamboo nor a pole) as we gaze

F:春になって富士の大嶽に立ち初める霞は衣を春風に干すみたいだろうな、っていう歌でしょうか。

G:「大嶽」→竹→物干し竿という連想もある。
 これも同音に甘えるあたかもの見立てかと思う。
 万葉の衣干す女帝の歌(春過ぎて夏来たるらし白妙の衣干したり天の香具山/持統天皇)は、川柳でも定番のネタだ。

F:この英訳には佐保姫が出てきていますね。あ、竿と掛けているのか。(笑)

G:一茶句に、時折、「佐保」が棒の「竿」となるが、翻訳すれば失われるものが必ずある。
 ロバート・フロストはこう言った。
 Poetry Is What Gets Lost In Translation
 (翻訳によって失われるものが詩だ)
 そのかわり、掛詞の楽しさの訳せない部分を脚韻で補うとか、もとの歌の雰囲気を伝えるために意味が少しずれても工夫を加えるとか、翻訳はcarry-over ではなくre-createだからこそ楽しい。

(続く)

富士の見立て(3)きゃっ、春風でスカートがめくれちゃった!

春風に富士のすそ野を吹き上げてあし高山も現れにけり 綱引方 E1785

When spring winds blow up Mt Fuji`s hems, we see something new,
 Mama-longlegs Ashidaka mountain gives us the upskirt view!

F:この歌は風でスカートがめくれちゃったという見立てですね。

G:そう。めくれて足が見えちゃった。足といえば富士山の南隣には愛鷹(あしたか)山がある。
 富士に限らず、山裾や萩の霞衣を風がいたずらする歌が沢山あるから、面白い表現の競り合いになる。

F:富士のスカートと言えば「裾野よりまくり見たるお富士山甲斐で見るより駿河一番」とかいう蜀山人の狂歌を落語で聞いたことがあるような。

G:するが一番とはどスケベやのう!

F:(なぜ関西弁??)
(続く)

富士の見立て(2)富士山と筑波山がにらめっこして笑う


春さむし富士と筑波と睨みくら互ひに笑ひ吹き出だす風  手柄岡持 1820

On a cold day, Mt Fuji and Tsukuba stare each other down
when suddenly, laughing aloud, out burst the Spring winds.

F:富士山と筑波山がにらめっこして吹き出し、それが風となって関東平野を吹き渡るかのような見立てですね。こういう見立てはよくあるんですか?

G:富士でなくともよくあるよ。
  笑う歌ならこういうのもある。

風の手にこそぐり立つる山の腰くつくつ笑う春は来にけり 綾織主 K1810

In this Land where even the Wind has hands like you & me,
mountain butts tickled when Spring comes laugh hysterically.

F:読んでそのまんま微笑ましいです。

(続く)

富士の見立て(1)富士山と筑波山が腹(原)を抱えて笑いあう

炬燵って富士山みたい。
ふとそう思う。

思えば富士山ほど〝見立て〟というレトリックに向いた題材はそうそうないのではなかろうか。
あの姿は、ただの台形ぐらいに簡略化されてもピンとくるほど、広く親しまれている。「富士額」しかり、隠語の「逆さ富士」しかり、それどころか山になってさえいれば、盛り塩だってお灸のもぐさだって、富士に見えてこないだろうか。


ちょうどFacebookで知り合ったロビン・D・ギルさんがとても狂歌に詳しくて、〝見立て〟を使った富士の狂歌をたくさん教えてくれた。
ギルさんは英訳もつけてくれたので、富士の狂歌との出会いが更に新鮮なものとなった。

富士のねも筑波の山も武蔵野のはらを抱えて笑ふ春の日 沢辺霞丸『狂歌題林集』

Mt Fujis peak & Mt Tsukuba reach around the broad girth
of Musashino plain this spring day bringing laughter to earth.

富士山と筑波山が武蔵野という腹(原)を抱えて笑い合っている。
掛詞も効いていて、なんとも雄大な見立てではないか。
狂歌の修辞というと掛詞がまっさきに思い浮かぶが、見立てワザも珍しくなく、特に富士には多いようである。

ただし、ロビンさんによれば、掛詞は訳せないことが多く、そのぶん何らかの工夫で補うとのこと。



富士と筑波さながら、狂歌話に大笑い。





(続く)

2019年10月26日土曜日

和歌のB面 狂歌を忘れていいのか?(ロビン・D・ギル)

※以下は、2019年1月来日時にロビンさんから伺ったお話を高柳がまとめたものです。
 
天明以降に狂歌の摺物(すりもの=印刷物。特に版木で印刷した書画などを指し、江戸時代後期には絵に狂歌を添えて板刻した一枚物の摺物があった。)が流行り、英米独の美術館がそれを収集し、贅沢大型本が相次いで出版された。
 だから。我が翻訳を別にすれば、翻訳されている狂歌の九割ぐらいが摺物の狂歌であり、偏っているし、質が高い歌とは限らない。
 一方、日本の国内で知られている狂歌も、狂歌全体からすればごく僅かでしかなく、これも偏っていると言えるだろう。

 このたび日の本の国に戻る途中の飛行機で、後席の大学生らしい日本人カップルに我が著書『古狂歌 気の薬のさんぷる袋』を見せたところ、妙な表情を浮かべた。
 いきなり感想を頼んだせいでない。「これはマイアミで書いた。まだ日本人に見せていない。二十年ぶりの来日で、お二人は最初になる。見ていただければ助かります」というような前置きをきちんと(?)しました。

 男の子は言った。
「あのお、実は、狂歌ってなんだかよくわからないんです」。
 二人とも知的な印象だったが、狂歌を知らないとは驚いた。そのあと成田の移民局で対応してくれた青年も、狂歌の著書への反応は、飛行機の彼と同じだった。

 狂歌は和歌のB面です。日本人が狂歌を知らないでは困ります。
 中国ではカラオケの聞きづらい酔った歌声を「狂歌」という。日本人が狂歌をこのまま忘れたら、国際的に「狂歌」はそっちの意味になってしまう。
 国文学のために戦わなくちゃと思うが、しかし、古狂歌を日本人に紹介するチャレンジの難しさを改めて思い知らされたところです。


※詩歌は高尚でマジメなものという思い込みから、笑いを見下す傾向があります。また、狂歌には、娯楽や縁起ものなどの効用が期待され、その場で目的が果たされる面もある。ーーそれで狂歌は、詩歌として軽んじられるのかもしれません。
 しかし、富士山の見立ての歌を見ただけでも、度肝を抜かれる見事さです。
 狂歌が廃れるのは本当にもったいないことだと思います。(高柳)



ゲスト紹介 ロビン・D・ギル(Robin D Gill)さん

 おびただしい古典和歌を読破し、今は和歌のB面ともいうべき狂歌を研究されているロビン・D・ギル(Robin D Gill)さんと、2018年秋にFacebookで「友達」になった。

 ロビン・D・ギルさんって、もしかして、と思った方はいないだろうか。


 ギルさんは、かつて『誤訳天国』(87年・白水社)『英語はこんなにニッポン語――言葉くらべと日本人論』(89年・ちくま文庫)などで知られたジャパノロジストだ。(当時の名はロビン・ギル。)


 私も当時『英語はこんなにニッポン語』を読み、この書名から想像し得る範囲を超えて溢れやまぬ豊饒を感じた。このギルという人は水中で息のできる人、言葉を鰓呼吸できる人なんじゃないか、と思ったのだった。

 (誓って言うが、その時点で「ギル」が「鰓」だなんて気づいていなかった。)
 そのギルさんとひょっと「友達」になるとは、さすがFacebookである。

 日本を離れたギルさんは、日本の古典俳句や狂歌を研究に没頭し、『Rise, Ye Sea Slugs!』(03年/古今の海鼠の俳句約千句の英訳)、題名からして面白い『Fly-ku!』(04年/一茶の名句「やれうつな」を生み出した言葉の土壌形成の考察)、『Cherry Blossom Epiphany』(07年/宗祇から江戸後期までの三千の桜の古句の英訳)等々を出版。その後、狂歌に魅せられ、狂歌大観、近世上方と江戸狂歌本の三大シリーズを始め、万葉集まで遡って古歌何十万首を読破。狂歌を七、八万首も集め、その知識を芯に、『古狂歌 滑稽の蒸すまで』他五冊を出版して現在に至るという。狂歌らは群をなし彼の脳内を泳ぎ回っているらしい。


 そういうわけで自称「古歌の首狩」のギルさんだが、2019年1月に来日され、直接お会いすることができた。二十年ぶりだというのに日本語ペラペラじゃないですか!(スゴーイデスネとなぜかこちらがガイジン口調。)


ロビン・D・ギルさんのページもご覧ください。

2019年10月25日金曜日

狂歌の鑑賞+英訳について

■歌人でも狂歌をほとんど読んだことがないという人は少なくない。
しかし、短歌史をひもとけば、江戸時代、伝統を意識してやや停滞気味の本流和歌に代わって、大胆な表現や語彙を取り入れた狂歌というジャンルは、近代に先駆けた面もあると思う。

また、狂歌の掛詞といえば言葉の手品のようなものだが、古来のレトリックで日本語表現の可能性の限界に挑戦するかのようでもあり、フィギアスケートなどワザを見せるスポーツを思わせるものとも言える。
これを忘れてしまうのはあまりにももったいない。

短歌という詩型はこういうこともできる、ということを、少しでも世の中に伝えたいと思う。

■そのようなことを考えていたところ、Facebookで狂歌に詳しいロビン・D・ギルさんと知り合うことができた。
ギルさんは、かつて『誤訳天国』(87年・白水社)『英語はこんなにニッポン語――言葉くらべと日本人論』(89年・ちくま文庫)などで知られたジャパノロジストである。

狂歌にに英訳をつけて、日本語で紹介する書籍を何冊も出版されていて、こちらのブログにもコメントや英訳でご協力いただけることになった。

ギルさんについては、紹介ページもご覧ください。

狂歌 凡例

■対話形式のコメント

 「G」=ロビン・D・ギルさん
 「F」=高柳蕗子


■引用狂歌の出典表記

「K1800」のように記す。

「K」等は江戸狂歌本を集めた各選集の略称。
K=『近世上方狂歌叢書』
E=『江戸狂歌本選集』
T=『狂歌大観』
D=『狂歌題林集』

また4桁の数字は選集に収録された元の狂歌本の発行年。
ただし、Dはすべて1818年である。